史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

景行天皇(筑紫巡幸)

統一前の大和朝廷の領土

 垂仁天皇が崩ずると、太子の大足彦尊が即位した。景行天皇である。この天皇の下で古代日本は初めて統一されることになる。『日本書紀』によると、景行帝がまず着手したのは筑紫*1への巡幸だった。その理由について同書では、熊襲が背いて朝貢しなかったので、熊襲征伐が目的だったとしている。ただ当時の大和と熊襲の両国が、既に宗主国とその藩屏という関係だったかどうかは疑わしく、恐らく朝貢云々は後世の脚色で、実際には熊襲が九州諸国を度々侵犯したため、大足彦尊が統一の一環として親征を行ったというものだろう。因みにこの遠征で皇軍が武力を用いた相手は、現地の土蜘蛛と熊襲くらいのもので、西方諸国を討伐したという記録はない。従って景行帝が筑紫巡幸を発令した時点で既に、西日本一帯は殆ど大和の支配下に入っていたことになる。
 では景行帝が国家を引き継いだ時点での大和の権力圏は、果してどの程度の範囲にまで及んでいたのであろうか。史書に記された大和の領土拡大は、崇神帝が四方に将軍を派遣し、各将が凱旋して戦果を報告した時点で止まっており、その後に周辺諸国へ兵を送ったという記録はない。つまり史書に従う限り、景行帝が即位した当時の大和の版図は、ほぼ崇神帝が一代で築き上げた頃のままであり、恐らく垂仁期には目に見えて領土が増減するような国境の変化はなかったものと思われる。言わば垂仁帝一代というのは、先代の創業を維持した守成の時期であり、それが次代の大躍進に繋がった訳である。
 これとよく似た例を挙げてみると、後漢末の曹操は一代で位人臣を極めて河北を掌中に収め、続く曹丕は漢帝から禅譲を受けて魏を興したが、その後は暫く魏の国土に大きな変化はなく、二代明帝が即位した時点でも祖父曹操の頃と大差なかった。無論それは魏の文帝こと曹丕が凡庸だったからでも、魏が天下統一を諦めていたからでもないが、文帝が即位した頃は蜀の劉備や呉の孫権がいまだ健在だったこともあり、三国鼎立が妙な安定期を迎えてしまった感は否めない。やがて明帝の代に遼東の公孫氏を討伐して、再び統一に向けて動き出した魏だったが、その直後に明帝が急死してしまったことで覇業は頓挫し、結局その後も三国の中から最終的な勝者が出ることはなかった。ただ明帝崩御直前の各国の内情を見てみると、国力や人材は元より君主の器量さえも魏が突出しており、呉と蜀は既に往年の勢威を失っていたので、もし明帝の治世が続いていれば魏が天下を統一したのは間違いなかったと思われる。
 また織田家の例を見てみると、信長が本能寺で急死した際、ほぼ時を同じくして嫡子の信忠も戦死してしまったので、実質的な織田家の歴史はそこで終っている。ただ仮に信忠が生き延びて家督を相続していたとしても、彼の代で天下統一を果たせたかどうかは甚だ疑問であろう。と言うのも当時の織田家の周囲に存続していた大名というのは、同盟者の徳川家を別にすれば、中国の毛利、四国の長曾我部、越後の上杉、関東の北条といった大大名ばかりであり、更にその先には薩摩の島津家や奥州の伊達家があった。加えて信長を支えた功臣の多くが既に高齢だったこともあり、仮に信忠が暗愚ではなかったにしても、信長という求心力を失った状態で、織田家が再び天下に覇を唱えるというのは、やはり時期的にも些か難しいものがあったろう。
 実のところ崇神帝や信長が採用した方面軍制度というのは、その意図するところが諸侯の根絶にあるので、却って敵の徹底抗戦を招きやすい。しかし本音を言えば誰しも勝ち目のない戦などしたくはないし、今ある所領が保障されるならば多少の妥協は致し方ないと思っている。従ってそうした相手の心境を察するに長けた秀吉が、主君信長の方針を一転させることで、至って短期間に戦国の世を終らせてしまったことは、日本人ならば知らぬ者のない史実と言ってよい。尤も秀吉の方も強かなもので、一旦は所領安堵を条件に臣従させておきながら、その後は戦場や普請で多大な負担を課したり、間を置いて本貫からの国替えを命ずるなど、むしろ信長よりも遥かに過酷な仕置きをしているのだが。 
 秀吉が織田家の実権を掌握して、実質的な信長の後継者となった時点での織田領の範囲を見てみると、東は越中・飛騨・美濃・尾張を結ぶ線までで、更にその先には、北の越後・佐渡には上杉、南の三河遠江駿河には徳川があり、中央の信濃・甲斐は武田氏の滅亡後に織田軍が進駐していたが、信長の死後に撤退していた。一方西は伯耆と備中の東部までで、更にその先には毛利、四国には長曾我部があり、紀州西部の諸勢力も未だ服従していなかった。そこから秀吉は、まず上杉・毛利と講和を結び、紀州と四国を征伐すると、苦心の末に徳川家康を臣従させる。賤ケ岳の合戦から家康上洛まで僅か三年である。こうして西は関門海峡から東は箱根までを平定した秀吉だったが、徳川・毛利・上杉の三家には従来の所領をほぼそのまま認めていたため、豊臣家の地盤そのものは旧織田領から殆ど増加していなかった。
 そして次に秀吉が着手したのは、島津氏討伐のための九州遠征だった。これは島津氏の侵攻を受けていた諸大名からの救援要請を受けてのもので、この時点で既に九州諸侯の多くは天下人秀吉に臣従していたため、この九州戦役は文字通り島津氏を屈服させるためのものであり、それこそが秀吉の望んだ図式に他ならなかった。と言うのも島津氏が強大であるが故に、その脅威に曝されていた他の諸侯は労せずして秀吉に靡いたからであり、もし以前のように大友・龍造寺・島津の三大名が九州に鼎立し、三氏全てが秀吉への帰順を拒むような事態になっていたら、その方が余程厄介だったからである。むしろこの九州親征の真の目的は、秀吉自身が大軍を率いて諸大名の領土を巡行することにより、新たな時代の天下人が誰であるかを西日本全域に誇示することであり、島津征伐はその口実に過ぎないとも言えた。
 同じことは東国についても言えて、関東では北条氏が余りに強大であったが故に、諸侯の多くは早くから秀吉に通じていたので、秀吉は北条氏の攻略だけを考えればよかった。現に秀吉の統一事業は小田原陥落と同時にほぼ完了しており、その後の奥羽巡行などは殆ど戦後処理のためのものだった。こうして再び天下を統一した秀吉は、その仕上げとしていよいよ豊臣家中心の大名配置に着手する。まず長曾我部・島津・伊達等の諸大名から没収した土地や、更には徳川家を関東に移封させた後の駿遠三甲信の五州、上杉景勝会津に移封した後の越後に腹心や子飼いを封ずることで、次第に豊臣領そのものを増大させて行った。尤もそうした豊臣恩顧の諸大名が、関ヶ原の合戦では尽く東軍に与し、結果的に豊臣家を滅亡させてしまったのは、何とも無情と言うほかはないのだが。
 話を古代に戻して、景行帝が即位した頃の大和の版図を見てみると、恐らく北は越前から越中、東は美濃・尾張、西は出雲辺りまでだったと推測される。まず東に関しては、同じく景行帝の治世に皇子の日本武尊尾張を出立して、駿河以東を平定した記録を記紀共に伝えているので、当初はほぼ尾張から三河辺りが境界だったと考えてよいだろう。次に西については、既に崇神紀と垂仁紀の中にも出雲にまつわる史話があることや、当時は山陰の出雲が日本有数の貿易港だったことを考えると、後に信長や秀吉が境を直轄領としたたように、出雲を押さえていなければ大和の西方進出は有り得ないことから、やはり遅くとも垂仁帝の治世には出雲を支配下に置いていたと考えられる。また北陸については、古墳時代になると越後にも国造が置かれていた記録があるものの、大彦命による北陸平定の範囲が不明な事や、能登以東は古墳の分布も少ないことから、越中越後は古墳時代を通して順次開拓されて行ったのではなかろうか。
 因みに信長が急死した時点では、未だ紀州と四国は織田家に従属していなかったのだが、この地域を大和の例で見てみると、まず紀州に関しては、初代神武帝が西岸の賊を誅しながら紀伊半島を南下し、熊野から奈良盆地へ進軍しているので、史書に従えばその時点で大和の傘下に入っていたことになる。一方四国については、前記の如く記紀には四国平定の記録がない。そこで実は大和朝廷の出身地は四国ではないかとする見方もあって、要は室町時代末期の三好一族のように四国で勢力を蓄えた皇室の祖先が、淡路から河内を経て奈良盆地を攻略しようとしたものの長髄彦に跳ね返され、紀伊半島を迂回して熊野越えをしたのが東征の原型だという訳であり、確かにこれはこれで有り得ない話ではないかも知れない。

景行天皇の筑紫巡幸

 さて熊襲征伐のために筑紫へ向かった景行帝は、まず周防の娑麼に着いた。史書では皇軍の進路や行程について触れられていないが、恐らく瀬戸内海を渡航したものと思われる。また意外と忘れられがちなのが、この筑紫遠征という軍事行動を読み解く上で重要なのは、これが一方通行的な武力制圧ではなく、あくまで巡幸だということである。つまり神武帝の東征のように、ある始点から別の終点に向けて進軍し、そこに到れば完了という訳ではなく、筑紫を平定した後は再び大和に戻って来なければならない。そしてこれを実行するためには、それを可能とする条件を満たしている必要がある。
 まずそもそもの大前提として、君主自らが長期間に渡って都を離れる訳だから、その間に政変が起きかねないよう状況では、とても遠方への巡幸などできない。従って崇神帝や垂仁帝の治世には困難な事業だったろうし、現に本能寺の変は信長が秀吉救援のための出馬準備をしている最中に起きている。また君主の親征ともなれば、それに伴って膨大な数の兵士も移動する訳だから、当然そこには厳格な軍律と十分な補給が求められる。もし将兵が行く先々で乱暴狼藉を働いたり、大軍の兵糧を現地で徴収したりすれば、忽ち民心の離反を招くからである。後年やはり秀吉が未曽有の大軍を率いて九州や関東へ遠征した際に、最も腐心かつ苦労したのがこの二つであり、そうした後世の事例を鑑みれば、当時の大和朝廷は(完全ではないにしても)巡幸に必要な基準を達成していたことになる。
 娑麼を発った皇軍は、道中で各地の土蜘蛛を討伐しながら、国東から大分、そして日向へと九州の東岸を南下して行った。実のところこの九州巡幸は、熊襲征伐と言うより土蜘蛛征伐の観を呈しており、『日本書紀』ではその様子が詳細に語られているが、ここでは省く。この土蜘蛛という集団については、倭人とは別種の非農系住民などと言われることもあるようだが、その実態はよく分からない。ただ神武帝奈良盆地討入りの際には、現地の土蜘蛛が饒速日命に与して皇軍を迎え撃つなど、必ずしも農耕民と隔絶された存在ではなかったようである。
 後世にこれとよく似た例を探してみると、信長に討伐された伊賀、秀吉の征伐を受けた紀州雑賀衆根来衆、東国の乱波や透波等が挙げられる。いずれも中世から戦国期にかけて暗躍した傭兵や忍びの集団で、その素性を見てみると、伊賀者は在郷の地侍雑賀衆根来衆は僧兵、関東の乱波には山賊や盗賊も含まれており、彼等の多くは大名と主従関係を結ばず、山僧や一揆と同様に寺社領や惣国を背景にして治外法権的な活動をしていた。また公的権力の及びにくい入り組んだ海岸線や、山間の盆地を地盤とすることが多いのも特徴で、大名の方も彼等の持つ特殊能力を利用したことから、体制に属さない集団として戦国中頃まではかなりの小勢力が各地に乱立していた。しかしそうした状況も織田信長の登場によって一変する。
 混沌とした戦乱の世を終らせて、新たな時代を築こうとしていた信長は、正規軍以外の組織による武力の行使を認めなかったため、武装解除に応じない半独立集団は尽く殲滅の対象となった。比叡山の山僧や長島の一向一揆に対する容赦のない制裁は特に有名だが、特定の主君を戴かない忍者や傭兵に対してもそれは同様だった。やがて秀吉の実施した刀狩りと太閤検地によって、彼等の多くは武士として生きるか帰農するかの二者択一を迫られ、武士の道を選んだ者は大名の家臣となり、帰農した者は領民となって再び国家体制に組み込まれて行った。そうして二百数十年の徳川幕藩体制を経た後、この列島に居住する全ての人民は、明治維新によって唯一つの「日本国民」となった訳である。
 恐らく土蜘蛛等に対する大和朝廷の政策も基本的には同じもので、土蜘蛛が討伐の対象となっているのは、彼等が農民ではないとか、倭人ではないからではなく、武装したまま独立しているからであり、もしかすると彼等の多くは、熊襲のように近隣の農村を侵すようなことすらしていなかったかも知れない。しかし日本全土を統一して、古代封建体制による国造りを進めていた大和朝廷は、国家に属さない武力の存在を認めなかった。やがて古墳時代になると兵農は完全に分離され、やはり三百年近い年月を経た後、大化の改新によってこの列島の全ての住民は、その出自や職業を問わず「公民」として統一されることになる。

*1:ちくし=九州