史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

仲哀天皇

即位から豊浦宮まで

 成務天皇が崩ずると、太子の足仲彦尊皇位を継いだ。仲哀天皇である。但し足仲彦尊は先帝の実子ではなく、その兄王小碓尊の子であり、成務帝にとっては甥に当たる。もともと成務帝の皇子については記紀共に殆ど記載がなく、『古事記』は穂積臣の祖の建忍山垂根の女との間に和訶奴気王という一柱を儲けたと伝えるのみで、『日本書紀』に至っては后妃子女に関する記録そのものがない。尤も成務紀ではなく仲哀紀の方に、稚足彦天皇には男子が無かったので、足仲彦尊を後嗣に立てたという一文があることから、読み流す限りでは実子に恵まれなかった成務帝が、日本武尊の忘れ形見に皇位を譲っただけのようにも見えるし、恐らく大半の人はそれをそのまま信じてしまうだろう。
 まず『日本書紀』に沿って仲哀帝の生涯を見て行くと、成務帝が六十年の夏六月に崩じたので(記では乙卯の年の三月)、翌年の春一月に足仲彦尊は即位し、その年の秋九月に先帝を狭城盾列陵(記では沙紀の多他那美に作る)に葬った。同年の冬十一月、群臣に詔して言うには、「朕が未だ成人する前に、父王(日本武尊)は既に崩じられた。そして御霊は白鳥となって天に上られた。慕い奉る心は一日も息むことがない。冀わくは白鳥を陵域の池に飼い、その鳥を観ながら偲ぶ心を慰めたい」と。そこで諸国に令して白鳥を献じさせたという。
 翌年の春一月に気長足姫を皇后に立てると、翌二月に角鹿へ行幸し、行宮を建てて滞在した。これを笥飯宮と言う。またこの月に淡路の屯倉を定めた。更に翌三月には、皇后や群臣を敦賀に留め置いたまま、二三人の卿大夫と数百ばかりの従者を連れて軽装で南海へ巡幸し、紀伊国に入って徳勒津宮に居した。この時に熊襲が叛いて朝貢しなかったので、帝は熊襲を討たんと欲し、徳勒津を発って海路穴門へ移った。穴門に着くと敦賀の皇后に使者を遣わして、直ぐにその地を発って穴門で落ち合うようにと勅し、豊浦津に泊った。七月に皇后が豊浦津に着いたので、同地に宮室を建てた。これを穴門豊浦宮と言う。
 冒頭から突っ込みどころ満載となっているが、まず即位翌年の皇后選定はともかくとして、わざわざ春二月に積雪地帯の敦賀行幸する理由が分からない。確かに同じ二月とは言っても、旧暦と新暦では多少時期が異なるとは言え、未だ雪解け前であることに変りはない。更にその翌月には、初春の敦賀に皇后と群臣を置いたまま、何故か帝自身は僅かな供回りを連れて南の紀伊へ赴き、同地で熊襲叛乱の報が入ったので、そのまま熊襲を討つべく穴門へ移ったという。しかし朝議を開いて群臣に諮りもせずに、君主の独断で開戦を決定するなどというのは、どんな独裁者でも不可能なことで、ましてや臣下を差し置いて君主自らが我先にと現地入りし、その後に重臣将兵を呼び寄せるなどという話は聞いたことがない。逆にこうした破天荒な行動が、仲哀帝の実像を表現したものならば、臣下としては到底こんな主君には付いて行けないだろう。
 敦賀の笥飯宮や気比神宮については、記紀共に複数の逸話を伝えている。越前国一宮の気比神宮は、気比大神こと伊奢沙別命主祭神とし、仲哀天皇神功皇后の二柱を本殿に合祀する官幣大社で、本宮の周囲に配された四社の宮には、それぞれ日本武尊応神天皇・姫命一柱・武内宿禰の四柱を祀るなど、仲哀朝前後の大和朝廷と深い関りがあったことを窺わせる神社である。また前記の如く角鹿の地は、崇神帝の晩年に任那から来日したとされる都怒我阿羅斯等との因果も示すように、大陸や半島からの玄関口として、各国の要人も往来する当時の国際港だった。そしていつの時代も、そうした諸国の来賓や使節の対応は専ら皇子の職務だったから、或いは太子時代の足仲彦尊誉田別尊もまた、敦賀東宮を構えていた時期があったのかも知れない。
 女性である皇后が、仲哀帝の後を追って豊浦へ向かったという話も、小田原征伐の陣中に淀殿を呼び寄せた秀吉の例もある通り、まず天皇率いる本隊が穴門へ布陣し、頃合いを見て皇后も付き従ったと解すれば、別段不思議なことではない。航路について言えば、仲哀紀にあるように天皇が巡幸先から独断で渡海することは有り得ないので、実際には然るべき準備をした上での出航だった筈であり、親政の大軍が航行するとなれば、神武帝の東征や景行帝の九州巡幸と同じく、やはり瀬戸内海が本道となるだろう。仲哀帝の南国巡幸というのも、恐らくは出陣前の軍備を現したもので、南海道の水軍を招集したか、或いは紀州に舟を造らせたのかも知れない。一方で後続の皇后は、護衛以上の軍勢を率いている訳でもないので、気比神宮に参拝した後、日本海航路を選択した可能性もあるだろう。
 続けて『日本書紀』を読み進めると、穴門に豊浦宮を営んだ仲哀帝は、そのまま同地に数年間滞在し、八年の春になってようやく筑紫に移ったという。仲哀紀には、筑紫に渡った仲哀帝と、岡県主や伊覩県主との逸話が記されており、前記の如く怡土の県名は仲哀帝に由来するという伝承が語られる。しかし現実の仲哀帝の治世は恐らく四世紀の中頃から後半であり、三世紀中頃の出来事を綴った『魏志』の中で既に伊都国の名が出てくることを思えば、怡土郡の地名にまつわるこの設定は有り得ない。ただ皇紀に従うと、仲哀帝の治世は女王卑弥呼以前となるので、日本の史書の世界では辻褄が合うのだが、その一方で仲哀紀での「イト県」の表記が、「怡土」ではなく「伊覩」となっているのは、明らかに先行の『魏志』を意識しているのが読み取れる。
 また国主の地位にある仲哀帝が、大和から遠く離れた豊浦に数年間滞在したというのも、景行帝の九州巡幸と同様に不可解な点だが、現実論から言えば天皇が何年も王都を留守にするというのは考えられない。もともと仲哀帝に関しては、記紀共に畿内に宮殿を営んだという記録がなく、『古事記』には「帯中日子天皇、穴門の豊浦宮、また筑紫の訶志比宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とだけある。更に言えば既に日本を統一している大和朝廷が、熊襲一国のために親征軍を興す必要はなく、まして元首自らが何年も西国に身を置く理由はない。従ってそもそもこの熊襲征伐は、景行帝の筑紫巡幸と同様に、今一度原点に立ち返って再考すべき事件と言える。

熊襲征伐と天皇崩御

 話を戻すと、仲哀帝は儺県の橿日宮に入り、群臣に詔して熊襲討伐を諮った。時に神があり、皇后に託し誨えて言うには、「天皇はどうして熊襲の服さぬことを憂えるのか。そこは荒れて痩せた地で、兵を挙げて討つに足らない。その国に優って宝のある国、譬えば乙女の眉のように、海の向こうに見える国がある。眩い金・銀・彩色が多くその国にある。これを栲衾新羅国と言う。もし能く吾を祭れば、刃を血塗らさずして、その国は必ず自づから服すだろう。また熊襲も服すだろう。その祭りをするには、天皇の御船、及び穴門直践立の献じた水田、これ等の物を以て弊ひとせよ」と。
 天皇は神の言葉を聞いて、これを疑う心があり、高い丘に登って大海を望んだが、広々として国は見えなかった。天皇が神に答えて言うには、「朕が見渡しても、海だけあって国はない。大空に国があると言うのか。どこの神が徒に朕を欺くのか。また我が皇祖諸天皇等は尽く神祇を祭っておられる。どうして忘れた神があろうか」と。時に神がまた皇后に託して言うには、「水に映る影の如く鮮明に、天上から我が見下している国を、どうして国がないなどと言って、我が言を誹るのか。汝がかく言って遂に信じないならば、汝はその国を得られないだろう。但し今皇后は初めて孕っている。その子が得ることはあろう」と。天皇はなおも信じようとせずに、熊襲討伐を強行したが、遂に勝てぬまま還った。
 翌九年春、天皇は急に病を患うと、忽ち悪化して翌日に崩じた。時に五十二歳。仲哀紀本文には「即ち知りぬ。神の言を用いたまわずして、早く崩りましぬることを」とあり、帝が若くして急逝したのは神託に従わなかったからだとしている。皇后と大臣武内宿禰は、天皇の喪を匿して天下に知らしめなかった。皇后は、大臣及び中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連に詔して、「今天下は未だ天皇の崩りますことを知らない。もし百姓が知れば懈怠するだろう」と言い、四大夫に命じ百僚を率いて宮中を守らせた。密かに天皇の屍を収めて、武内宿禰に託して海路より穴門に移すと、豊浦宮で殯をして燈火を焚かずに仮葬し、宿禰は穴門から戻ってこれを皇后に復奏した。この年は新羅の役があったので、天皇を葬ることができなかったという。
 また仲哀紀では「一に曰く」として、天皇は親ら熊襲を討とうとして、賊の矢に当たって崩じたとしている。案外これが真相かも知れない。同じく戦場での負傷が元で死亡した国首として室町幕府創始者足利尊氏がおり、彼の死因もまた矢傷からの感染症ではないかと言われている。元帥としては甚だ軽率な行動だが、武神日本武尊の子という自負が足仲彦尊を戦場に駆り立てたのだろうか。ましてこれが記紀にある通り、未だ新たな王宮も構えぬうちから筑紫へ遠征し、そのまま一度も都へ帰還することなく陣没したのが事実だとすれば、これは君主失格だと言われても仕方がない。しかも史書によれば、この熊襲征伐には皇后気長足姫を始めとして、大臣武内宿禰以下の重臣が尽く侍っていたというのだから、その間の国政は一体どうなっていたのだろうか。
 そこで天皇が即位の翌年から都を離れたまま、数年に渡って帰京しなかったという話を史実だと仮定して、改めてその可能性を思案してみたとき、その回答として即座に考え付くのは次の二つであろう。まず一つは、実父への尊敬の念が強かった足仲彦尊は、太子時代から征西の意見を持っており、朝廷でもそれを主張していたのだが、成務帝存命中は許可されなかったため、即位を待って実行に移したというものだ。そして本来ならば(先帝の実子でもない)若い君主が自分の信念を貫いて親政を行うには、少なくとも数年以上の準備期間が必要だと思われるが、この辺りはさも即位直後から実現したかのように史書内では略されたのかも知れないし、足仲彦尊の思想に賛同する廷臣の後押しがあったのかも知れない。
 もう一つは、もともと足仲彦尊は、即位前から西国に赴いていたというものだ。つまり太子として鎮西の任に当たっていた足仲彦尊が、成務帝が崩御したため近江で皇位を継承した後、事を成し遂げるべく再び穴戸へ舞い戻ったと見る訳である。これならば西国以外に仲哀朝の宮地が伝えられていないことや、たかが熊襲一国のために足仲彦尊自ら遠征したことへの説明にもなるが、皇后とその一族にしてみれば、未だ国主として畿内に宮殿を構えもせず、夫婦の間には一人の子女も授かっていないというのに、遠く筑紫の地で天皇が戦死してしまった訳だから、何とも具合の悪い話ではある。
 一方『古事記』では仲哀帝の治績として、穴門と筑紫の二宮、后妃子女、淡道の屯家を定めたことを伝える。先代の成務記とは違い、仲哀記そのものは他の天皇と同じくそれなりの文字数なのだが、その大半は皇后の気長足姫に関するもので、その点ではやはり倭建命の活躍が紙面の大半を占める景行記とよく似ている。しかし両記で大きく異なるのは、倭建命の話が景行帝の在位中であるのに対して、神功皇后のそれは仲哀帝の死後だということである。そのため正史の『日本書紀』では、日本武尊の伝記をあくまで景行紀の一部として扱い、成務紀と合せて一巻の中に収めているのに対して、夫婦である仲哀帝神功皇后は、何故かそれぞれ独立した巻に分けるという形を取っている。
 『日本書紀』によると、仲哀天皇は在位八年目の春一月に筑紫の橿日宮に遷り、翌九年の春二月に急死しているので、その治世は僅かに九年である。そして橿日宮へ入るまでの数年間が、南海道への巡幸や穴戸豊浦宮の造営など、大規模な親征に向けた準備期間であり、対熊襲戦の失敗が早過ぎる死を招いたとすれば、まさに実父の日本武尊と同じく、その短い生涯の殆どを陣中に終えた天皇だった訳である。或いは「仲哀」という漢風諡号もまた、そうした足仲彦尊の人生を反映しての撰進なのだろうが、実のところ仲哀帝の命運が哀愁を帯びるのは生前ではなくその死後であり、それを演出したのは外ならぬ皇后気長足姫だった。