史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

神功皇后と御子

皇后出産の虚実

 正史の『日本書紀』によると、仲哀帝が崩じたのは九年の二月六日であり、皇后の出産は同年の十二月十四日だという。しかし妊娠と出産に関して多少なりとも知識のある者ならば、この間隔が有り得ないことは直ぐに分かる。一般的に女性の妊娠期間は約二八〇日(四〇週)とされており、これが所謂十月十日(とつきとおか)と言われる日数だが、この「とつかとおか」はあくまで「十月目の十日」という意味であり、「十月と十日」ではないので、陰暦に直すと九ヶ月半ほどになる。そして多少の前後はあるにせよ、出産予定日はこの計算に基づいて推定することができ、当然それは今も昔も変らない。
 しかし気長足姫は仲哀帝の死から十ヶ月以上を経た後に出産しており、そこで腹に石を巻いて出産を遅らせたという弁解が必要になる訳だが、元より現実的には無理な話である。実のところ大半の女性は四十週を迎える前に出産を終えており、更にそれを一月も超えるような例は殆どなく、過期産による胎児への悪影響を鑑みれば、十月十日を意図的に遅らせるなどというのは正気の沙汰ではない。因みに仲哀帝崩御を二月とするのは仲哀紀本文、皇后の出産を十二月とするのは神功紀本文で、神功紀異伝と仲哀記は帝の崩御を神託当日としており、仲哀記ではそれを六月とするが、いずれにせよ仲哀帝の急死から皇后の出産までの日数が合わないことに変りはない。
 更に言えば、そもそも妊婦が将兵と共に対馬海峡を渡り、臨月直前まで適地の陣中に常在するなどという芸当が可能な筈もなく、ましてお腹の子が先帝の忘れ形見であれば猶更である。そのため気長足姫は初めから妊娠などしておらず、出産そのものが彼女の狂言だったのではないかとする見方もある。つまり石を巻いて出産を遅らせたのではなく、後に忍熊方先鋒の熊之凝が「内の朝臣が腹内には小石あれや」と揶揄したように、石を抱いて妊娠を偽装したのであり、皇后が宿禰等と企てた自作自演の大芝居だったという訳である。確かに当時の状況を観察すると、それも有り得ない話ではないと思われるが、流石にそこまで行ってしまうと切りがないので、ここでは敢て立ち入らない。

神託に告げられた御子

 気長足姫の産んだ子が仲哀帝の子ではないということに関しては、実のところ記紀の中にもそれを暗示している箇所はあって、その一つに神託がある。既知の通り仲哀帝熊襲征伐のために筑紫まで親征した際、その陣中で皇后が神憑り、とある神が現れて熊襲ではなく新羅を攻めるよう帝に教示したものの、その神告を信じなかった帝が急死するという事件が起きた。と言うより起きたことになっている。そして皇后に託した神の教えを疑う帝に対して、その神はかなり厳しい言葉でこれを責めるのだが、その時に神が帝に向けて放った台詞といのうも、改めて読み直してみると実は明らかにおかしいのである。
 神から仲哀帝に向けられた最後の言葉は、『日本書紀』では「汝王が信じないならば、汝はその国(新羅)を得られまい。但し今皇后は初めて孕んでいる。或いはその子が得ることもあろう」であり、これは仲哀紀・神功紀異伝共に変らない。一方『古事記』では「凡そこの天下は汝の知らすべき国にあらず。汝は一道に向かえ」であり、帝の死後に皇后が再び神を招き寄せると、「凡そこの国(大和)は、汝命の御腹に坐す御子の知らさむ国なり」と皇后に告げており、どちらも仲哀帝に代って皇后の胎内にいる子が国を得ると予言したものになっている。
 しかし不思議なのは、記紀共に皇后のお腹の子が仲哀帝の子だとは一言も言っていないことで、そもそもその子が本当に帝の子ならば、神託にしても「汝はその国を得られまい。(皇后の身籠っている)汝の子が得るだろう」とでも言うべきだが、何故か一貫して単に「皇后の子」なのである。無論皇后の子が仲哀帝の子なのは当り前のことなので、敢て言及するまでもなかっただけという意見もあろうが、「汝の子が国を得る」というのと「皇后のお腹の子が国を得る」というのとでは、同じことを言っているように見えて、その実は全く違うことを伝えているとも言える。むしろこれでは皇后の子が仲哀帝の子ではないことを半ば意図的に公言しているようなものであろう。
 では神功皇后の産んだ子の真の父親とは一体誰で、もしその人物が皇位継承権を持たないような身分だった場合、この時点で王朝が変ったということになるのだろうか。結論から言ってしまえば、以後も基本的に皇室の血統は続いているし、ましてや革命が起きた訳でもない。何故なら神功皇后の産んだ子の父親が誰であろうと、そもそも第十五代応神天皇は彼女の子ではないからだ。では崇神天皇を古代の織田信長、同じく景行天皇豊臣秀吉に擬すれば、それこそ古代の徳川家康とでも言うべき応神天皇とは、一体いかなる出自を持つ皇族だったのか。

神功皇后の統治期間

 『日本書紀』の年紀を確認すると、気長足姫が男児を出産したのは仲哀九年であり、翌年が神功皇后の摂政元年とされる。そして皇后は摂政六十九年に百歳で崩じ、その翌年に即位した応神天皇の治世は四十一年となっているので、前述の百十という享年はここから導き出される訳である。しかし当然これらは応神天皇こと誉田別尊神功皇后の子であり、母后の死後に皇位を継いだという史書の台本に基づくものだから、以来千数百年にも渡り信じられてきた物語の因果が覆るようなことになれば、その先には未知なる史実への道も開けてくる筈である。
 まず六十九年という神功皇后の治世について言えば、前述の通り神功紀には摂政五年から同四十六年までの間に不自然な四十年の空白があること、その四十年間を削除することにより前後の話が一連の流れとして繋がること、その繋がった話の内容が年代的にも好太王碑の記録とほぼ一致すること、摂政五十五年以降の記述の殆どが百済史書からの引用であること等から、恐らく実質的な神功皇后の治世は十数年だったと考えられる。言わばその王権代行期間は、最初の朝鮮出兵である新羅征伐の成功に始まり、最後の朝鮮出兵となった高句麗遠征の失敗と同時に終った訳である。
 そもそも神功皇后が自ら権力の座に就いたのは、我が子に皇位を継がせることで保身を図るためだから、本来ならば持統女帝のように我が子の成人を待って即位させ、自分はそれを後見するというのが最も確実な手法の筈である。しかし史書によると彼女は生涯摂政(女帝だったとも)の地位にあり、ようやく誉田別尊が即位したのはその死後だったので、既に皇太子は七十歳になっていた。この七十という数字を話半分として捉えても立派な壮年であり、この時点で両者に親子関係など成り立たないことが分かる。或いは推古女帝が我が子の早逝によって譲位の機会を失ったように、史書には記されていないだけで、気長足姫もまた愛する我が子に先立たれたが故の終身在位だったということだろうか。

宇佐神宮神功皇后応神天皇

 応神天皇神功皇后の関係性を知る上で、その手掛りとなる可能性を秘めた事象の一つに、両者を祭神とする宇佐神宮がある。豊前国一宮でもある宇佐神宮は、全国に四万社を数える八幡神社の総本社であり、八幡大神こと応神天皇を主神とし、比売大神と神功皇后を合祀する。尤もこの三柱の配置については、表向き一之御殿八幡大神、二之御殿比売大神、三之御殿神功皇后とされているものの、神宮本殿の中央に坐すのは比売大神であり、その左右に神功皇后応神天皇が配される形となっている。祭殿の位置的な順位としては、一位が比売大神、二位が神功皇后、三位が応神天皇である。比売大神というのは筑前宗像大社の祭神である三女神と言われ、神話によるとこの三柱の女神は天照大神素戔嗚尊の誓約の際に産まれた神々だという。ただ客神である筈の宗像大神が応神天皇神功皇后の間に入る形で主神の座に置かれた理由については今も不明とされる。
 宇佐神宮石清水八幡宮と並んで三大八幡宮と称される筑前筥崎宮もまた、応神天皇神功皇后を合祀する神社として知られる。筥崎宮は同じ筑前国穂波郡の大分宮を元宮とし、八幡神の託宣により大分宮を箱崎浜へ遷座する形で建立されたと伝える。元宮である大分宮の社伝によれば、同社の立地はかつて神功皇后朝鮮出兵の際に逗留した場所と言われ、祭神は大分宮・筥崎宮共に応神天皇神功皇后玉依姫の三柱である。神武天皇の生母である玉依姫は、実姉豊玉姫の産んだ鸕鶿草葺不合尊に嫁いで五瀬命以下の四柱を儲けたとされており、叔母と甥の結婚という構図は仲哀天皇の両親と同じである。
 こうして見てみると宇佐神宮筥崎宮共に、応神天皇神功皇后、そして海にまつわる女神を鼎立させる様式となっていることが分かる。もともと宗像大社は、沖ノ島沖津宮筑前大島中津宮、田島の辺津宮の総称で、沖津宮田心姫命中津宮湍津姫命辺津宮に市杵嶋姫命の三姫神を祀り、この三神は宗像大神とも道主貴とも呼ばれ、古くから玄界灘の守護神として崇拝されてきた。玉依姫は海神の娘で、姉の豊玉姫天孫彦火火出見尊(山幸彦)へ嫁いだ時に姉に従って付いてきたとも、子を置いて国に帰った玉依姫が養母として遣わしたとも伝えるが、天孫と海神を結ぶ橋渡し役となった女性である。
 どちらも一見すると、新羅征伐を成し遂げた神功皇后、皇后が筑紫で産んだとされる応神天皇、そして九州の神話にまつわる海の女神という、無難な組合せのようにも見える。しかし神功皇后応神天皇が親子ではないとすると話がまるで違ってくる訳で、むしろ高位の女神を勧請することで両者の仲を取り持っているようにも見えてくる。無論神話を鵜呑みにした後世の人間が勝手にやった可能性も否定はできないし、案外それが真相なのかも知れないが、宇佐八幡宮の主神の座に比売大神が据えられた由緒を説明できないことに変りはない。いずれにせよ全国に現存する神社の約半数を占めるという八幡宮とその祭神については、今一度姿勢を改めて考察してみる価値があるだろう。