史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

古代日本史

応神天皇(応神紀と成務天皇)

応神紀と応神記 応神紀の初期年表 甘美内宿禰の讒言 応神紀と成務天皇 武内宿禰の野心 応神紀と応神記 古代国家大和の形成は、まず御間城入彦天皇(崇神帝)が四道へ将軍を派遣して周囲を平定し、続く活目入彦天皇(垂仁帝)がこれを継承して国家の礎を築い…

神功皇后から応神天皇へ

九州に伝わる伝承 応神天皇と関ケ原 鎮魂の言霊 九州に伝わる伝承 応神天皇と神功皇后にまつわる伝承の中に、昔何かの本で読んだ忘れられない話がある。その著者も書名も失念してしまったのが残念だが、その内容だけは今もはっきりと覚えていて、それは次の…

神功皇后と御子

皇后出産の虚実 神託に告げられた御子 神功皇后の統治期間 宇佐神宮と神功皇后と応神天皇 皇后出産の虚実 正史の『日本書紀』によると、仲哀帝が崩じたのは九年の二月六日であり、皇后の出産は同年の十二月十四日だという。しかし妊娠と出産に関して多少なり…

仲哀天皇の妻子

仲哀天皇の実像 麛坂王と忍熊王とは誰か 仲哀天皇の実像 ここで仲哀天皇の血統をもう一度確認しておくと、父は景行帝皇子の小碓尊(日本武尊)、母は垂仁帝皇女の両道入姫命であり、史書に従えば両親は甥と叔母の関係になる。続いて仲哀帝の子女について記紀…

三韓征伐(神功紀と好太王碑)

以上が好太王碑に刻まれた四世紀後半から五世紀初頭の倭と朝鮮の風景である。そして我々の知る日本史の中には、これ等の出来事に呼応するだけの明確な痕跡がない訳だが、確かに碑文自体は高句麗側の視点で語られているにせよ、その内容が全くの創作であろう…

三韓征伐(好太王と倭人)

高句麗の好太王 高句麗から見た倭の朝鮮進出と百済 新羅を巡る倭と高句麗の争い 倭軍の高句麗遠征と失敗 高句麗の好太王 『日本書紀』の言う皇太后の摂政期が六十余年にも及んだとか、彼女が百歳まで生きたなどという話が虚構であることは誰もが理解している…

三韓征伐(皇后と半島外交)

神功紀に見る皇后の治世(前半部) 神功紀に見る皇后の治世(後半部) 百済記と日本書紀 神功紀に見る皇后の治世(前半部) 『日本書紀』の年号によると、仲哀帝が崩じたのは在位九年の二月のことで、気長足姫は同年十月に新羅へ出兵し、十二月に筑紫で男子…

神功皇后(忍熊王の乱)

日本書紀に見る忍熊王の乱 忍熊王の乱の戦況 古事記に見る忍熊王の乱 日本書紀に見る忍熊王の乱 朝鮮から戻った気長足姫は、筑紫で男児を出産した。応神天皇である。ここからは記紀共に仲哀帝皇子の麛坂王と忍熊王が起こしたという反乱の話を伝える。神功紀…

神功皇后(新羅征伐)

記紀に描かれた新羅征伐 新羅征伐の戦略 倭の国策と新羅 記紀に描かれた新羅征伐 神功紀本文に描かれた皇后の新羅出兵は次のようなものである。秋九月に諸国に令して船舶を集め兵士を練ったが、時に軍卒が集まり難かった。皇后が「これは神の御心だろう」と…

神功皇后(出兵前夜)

男装して渡海を説く 皇后気長足姫の思惑 朝鮮出兵と国内事情 男装して渡海を説く 続いて神功紀本文では、皇后が海を渡って新羅を征伐したという話を伝える。山門から松浦に移った皇后は、自ら男装して群臣に語って言うには、「師を興し衆を動かすのは国の大…

神功皇后(神託)

記紀に描かれた神託 神託の構成 記紀に描かれた神託 『日本書紀』第九巻神功紀(気長足姫は女帝ではないので、本来ならば紀ではなく伝とすべきであろうが、同書には伝が設けられていないことと、敢て一巻を割いていることから、便宜上神功紀とする)は、次の…

仲哀天皇

即位から豊浦宮まで 熊襲征伐と天皇崩御 即位から豊浦宮まで 成務天皇が崩ずると、太子の足仲彦尊が皇位を継いだ。仲哀天皇である。但し足仲彦尊は先帝の実子ではなく、その兄王小碓尊の子であり、成務帝にとっては甥に当たる。もともと成務帝の皇子について…

成務天皇

記紀の中の成務天皇 垂仁紀と成務天皇 成務天皇と武内宿禰 記紀の中の成務天皇 小碓尊に先立たれた景行天皇は、第四子の稚足彦尊を立てて皇太子とした。母は後皇后の八坂入媛命で、崇神帝皇子の八坂入彦命の娘である。稚足彦尊の立太子については、景行紀に…

景行天皇と日本武尊(まとめ)

景行天皇の東国巡幸 景行紀略年表 景行天皇の東国巡幸 景行紀によると、日本武尊の死から十年余り経った頃、景行帝は小碓尊の平定した国を観てみたいと言って、東国巡幸を行った。その年の八月に御輿は伊勢に幸し、更に東海を経て十月には上総に到り、海路か…

日本武尊(東国平定)

東征往路(日本書紀) 東征往路(古事記) 東征復路(日本書紀) 東征復路(古事記) 日本武尊の薨去(日本書紀) 倭建命の薨去(古事記) 早過ぎる死 日本武尊の東征とは 東征往路(日本書紀) 熊襲を討伐した日本武尊は、景行帝から統一の仕上げとして東国…

日本武尊(熊襲征伐)

日本書紀に描かれた日本武尊 古事記に描かれた倭建命 日本武尊と筑紫巡幸 美濃と景行天皇 日本書紀に描かれた日本武尊 景行天皇こと大足彦忍代別天皇は、前皇后の播磨稲日大郎姫との間に双子の皇子を儲けた。双子の名は、兄を大碓皇子、弟を小碓尊と言い、小…

景行天皇(筑紫巡幸まとめ)

大和朝廷と筑紫 九州に国は存在したか 筑紫巡幸は親征か 畿内と九州の地名の類似点 大和朝廷と筑紫 以上が景行帝による筑紫巡幸の要略だが、こうして読み終えてみると、恐らく誰しも疑問に思うことがいくつかある。まず一つは、天孫瓊瓊杵尊が日向の高千穂に…

景行天皇(火の国)

さて熊県(肥後国磨郡)で弟熊を討った景行帝は、『日本書紀』によると海路から葦北(同葦北郡)に渡ったとされる。ただ地図を見れば誰でも分かる通り、球磨郡と葦北郡は隣接しているので、険阻な山越えを伴うとは言え、わざわざ一旦日向まで戻り、舟で大隅…

景行天皇(熊襲征伐)

熊襲平定 筑紫巡幸と土蜘蛛 熊襲平定 直入の土蜘蛛を討伐した景行帝は、更に南下して日向に到り、行宮を建てて熊襲を討つことを議した。天皇が群卿に詔して言うには、「聞けば襲の国に厚鹿文と迮鹿文という者がおり、この両人は熊襲の武勇の者にして衆類も多…

景行天皇(筑紫巡幸)

統一前の大和朝廷の領土 景行天皇の筑紫巡幸 統一前の大和朝廷の領土 垂仁天皇が崩ずると、太子の大足彦尊が即位した。景行天皇である。この天皇の下で古代日本は初めて統一されることになる。『日本書紀』によると、景行帝がまず着手したのは筑紫*1への巡幸…

垂仁天皇(まとめ)

殉死の廃止と埴輪の起源 垂仁紀略年表 殉死の廃止と埴輪の起源 垂仁帝の有名な治績の一つに、殉死の廃止と埴輪の起源に関する話がある。『日本書紀』に伝えるところでは、天皇の同母帝倭彦命が亡くなった時、その近習者を集めて、尽く生きたまま陵域に埋め立…

垂仁天皇(狭穂彦の乱)

日本書紀に見る狭穂彦の変 古事記に見る沙本毘売の変 物言わぬ皇子 丹波の姉妹 日本書紀に見る狭穂彦の変 続いて『日本書紀』本文では、皇后の兄の狭穂彦王が謀反を企てた話を伝える。皇后が休息して家にいるときを伺い、狭穂彦は妹に語って「汝は兄と夫と孰…

垂仁天皇(天之日矛)

垂仁紀と垂仁記 垂仁紀に見る朝鮮外交 天之日矛の帰化 新羅王室と天之日矛 但馬氏の祖としての天之日矛 新羅の王子としての天之日矛 垂仁紀と垂仁記 崇神天皇が崩ずると太子の活目尊が即位した。垂仁天皇である。初めに記紀両書に録された主な治績を挙げてお…

崇神天皇(まとめ)

出雲の神宝と皇太子の選定 崇神紀略年表 出雲の神宝と皇太子の選定 『日本書紀』の崇神紀は、まず即位と后妃皇子女に始まり、次いで神々の祭祀、四道将軍と武埴安彦の謀叛、大物主神の妻問、御肇国天皇の称号、皇太子の選定、出雲の神宝と続き、造営した池を…

崇神天皇(四道将軍)

四道将軍の派遣 諸将の人選 吉備津彦と吉備氏 大和朝廷の実像 武埴安彦の変 正妻に見る大和朝廷 四道将軍の派遣 一通り諸神の祭祀を終えた崇神帝は、周辺諸国の平定に着手する。即ち大彦命を北陸へ、武渟川別を東海へ、吉備津彦を西海へ、丹波道主命を丹波へ…

崇神天皇(大物主神)

崇神天皇の祭祀 天照大神と大和朝廷 崇神天皇の祭祀 神武天皇の東征から十世代の時を経て、止まっていたこの国の時間が再び動き始めることになる。第十代崇神天皇こと御間城入彦五十瓊殖皇尊(記は御眞木入日子印恵に作る)の登場である。初代神武帝と同じく…