史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

景行天皇(熊襲征伐)

熊襲平定

 直入の土蜘蛛を討伐した景行帝は、更に南下して日向に到り、行宮を建てて熊襲を討つことを議した。天皇が群卿に詔して言うには、「聞けば襲の国に厚鹿文と迮鹿文という者がおり、この両人は熊襲の武勇の者にして衆類も多い。これを熊襲の八十梟帥と言う。勢が盛んで敵う者がない。帥を興すこと少なければ賊を滅ぼせまい。しかし多くの兵を動かせば百姓の害となる。何とか鋒刀を用いずに自ずと彼の国を平らげられぬものか」と。すると一人の臣が進み出て言うには、「熊襲梟帥には二人の娘があり、姉を市乾鹿文、妹を市鹿文と言う。容姿が端正で気性も雄々しい。貴重な贈物を示して幕下に召し入れ、梟帥の消息を窺わせて不意を突けば、刀を血塗らすことなく敵は自ずから敗れよう」と。天皇はこれを可とした。
 そこで景光帝は贈物を与えて二人の娘を欺き、幕下に迎えて姉の市乾鹿文を偽りに寵した。彼女は父に背くことを約し、僅かな兵士を連れて実家に帰ると、父に強い酒を多く飲ませ、酔って寝た隙に弓の弦を切っておいた。そこへ付き従っていた兵士が進み出て熊襲梟帥を殺した。天皇はその不孝の甚だしいことを憎んで市乾鹿文を殺し、妹の市鹿文は火国造に賜ったという。これは秀吉の九州征伐小田原征伐にも言えることだが、初めからこの親征で重要なのは、天下人が大軍を従えて遠路巡幸すること、即ちあらゆる面でそれを実行するだけの力があることを内外に誇示することであって、都から遠く離れた未知の地で敵を撃ち破ることではない。むしろ強者の方こそ失うものも大きい訳だから、あくまで戦わずして勝つことが最善なのであり、調略で片付くならばそれに越したことはなかった。
 ここで「クマソ」という名称の由来について触れておくと、これには大きく分けて二つの説がある。まず一つは、景行紀で熊襲の土地を「襲の国」と記しているように、本来の名称は「ソ」であり、彼等の居住地が山奥だったことから、辺地や物陰を表す「クマ(隈)」を付けて「クマソ」と呼んだというものである。襲の国というのは、大隅国曽於郡の地名が残るように、日向諸県郡の南部から曽於郡に到る都城盆地のことで、そこから下りて来ては度々他国を侵犯したため、遂には大和朝廷の討伐を受けた訳である。ただ天皇自ら筑紫へ親征するというのは余程のことなので、恐らく邪馬台後の混乱に乗じて日向北部にまで侵出する動きを見せていたものと思われる。
 もう一つは、『風土記』では熊襲が球磨贈や球磨贈於などと表記され、景行紀でも球磨を「熊」と書いているように、「熊の国」と「襲の国」の二つを合わせて「熊襲」と呼んだというものである。熊というのは肥後球磨郡のことで、その中心である球磨盆地(人吉盆地)は、都城盆地と並ぶ山間の広大な平地であり、他者からの干渉を退けて独立を保つには十分な面積があった。当時の基準からすればどちらも立派な「クニ」である。ただ球磨盆地と都城盆地とでは、考古学的に見てもその地域特性が異質であることから、本来この両者は全く別の系統に属する集団で、陸奥と出羽を総称して奥羽と呼ぶように、「熊襲」というのは一個の民族や地域を表した言葉ではなく、北九州文化圏の南に存在していた西の「クマ」と東の「ソ」を併せて「クマソ」と呼んだに過ぎないとする見方もある。そして景行帝の討伐の対象となったのは東の「襲」の方である。
 熊襲梟帥を討った景行帝は、その余勢を駆って尽く襲の国を平らげると、子湯県の丹裳小野に遊んだ後、筑紫巡幸のために夷守へ移動した。子湯県は日向国の中央部に位置する児湯郡、夷守は肥後球磨郡に隣接する諸県郡の北西部(現在の小林市付近と推測される)に当たる。地図で見てみると、ここで夷守と呼ばれている地域は、ちょうど球磨盆地と都城盆地を結ぶ街道の中間に位置し、熊襲防衛のための要衝だったことが分かる。もともと夷守の語義は、国境や辺境の要地を守ること、またはその守衛の任に当たった兵士のことで、場所によってはそれが後々まで地名として残っている。従って球磨盆地と都城盆地の間に地位する土地が夷守と呼ばれたのは、当時の状況からして至って自然な帰結と言えるのだが、果して同地が夷守となったのは景行帝の巡幸以後のことなのか、或いはそれ以前から非熊襲系の人々によって夷守が置かれていたのかについては不明である。
 景行帝が夷守に到ると、岩瀬川の畔に群衆が集っていた。帝はこれを遥かに望んで、左右の者に「あの集っている人々は何か。蓋し賊か」と言い、兄夷守と弟夷守を遣わして観させると、弟夷守が還って来て、諸県君泉媛が御食を奉ろうとして、その続柄が集っていると報告した。次いで皇軍は日向と肥後の国境となっている山地を越えて熊県に入った。前記の如く熊県は肥後球磨郡に当たるので、日向児湯郡から諸県郡を経て球磨郡へ抜ける経路が見て取れる。そこには熊津彦という兄弟が居り、帝がまず兄熊を召し出すと、使者に従って詣で来たが、弟熊は召しても来なかったので、兵を送って誅した。こうして熊と襲の両国は平定された訳である。

筑紫巡幸と土蜘蛛

 景行帝の筑紫巡幸は、まず周防の佐波を出港して豊国(豊前と豊後)に渡るところから始まり、豊の各地で土蜘蛛を討伐しながら九州の東側を南下し、日向で襲の国を平定すると、更に夷守を経て球磨を鎮めた後、再び海路から八代海に出て、九州の西側を北上しながら火国(肥国:肥後と肥前)と筑紫(筑後筑前)を回って終る。天皇自ら兵を率いて九州全土を踏破するという空前絶後の事業だっただけに、各地で景行帝にまつわる伝承が数多く残されており、それらは主に『日本書紀』と各『風土記』に収録されている。面白いことに一方の史書である『古事記』には、景行帝の筑紫巡幸に関する記事は見られず、皇子の倭建命による熊襲征伐を伝えるのみとなっている。ここで九州各地に残る景行帝の逸話を複数の史料から抜粋し、巡幸の順路を追う形で要略すると次のようになる。

 

天皇は周芳の娑麼に着くと、南を望んで群卿に言った。「南方に煙が多く起っている。きっと賊があろう」と。そこで多臣の祖の武諸木、国前の臣の祖の菟名手、物部臣の祖の夏花を遣わして、その状況を観察させた。そこには女がいて、神夏磯媛と言う。その衆徒は甚だ多く、一国の首長である。天皇の使者が来たと聞いて、自ら参り詣でて言うには、「願わくは兵を下されるな。我が属類に背く者はない。今まさに帰順しよう。ただ悪しき賊が居る。一人目を菟狭の川上に屯する鼻垂と言い、二人目を御木の川上に居る耳垂と言い、三人目を高羽の川上に居る朝剥と言い、四人目を緑野の川上に隠れている土折猪折と言う。この四人の居る所は皆要害の地である。各々眷属を領して一処の長となっている。皆『皇命には従わない』と言っている。願わくは速やかに撃ち給え。くれぐれも逃さないように」と。そこで武諸木等はまず朝剥を誘い、種々の珍奇な物を賜って、同じく服さない三人も召さしめた。するとそれぞれ己の輩を率いて参り来たので、尽く捕えて誅してしまった。天皇は遂に筑紫に幸して、豊前国の長狭県に行宮を建てて入った。故にその地を名付けて「京*1」と言う。(『日本書紀』景行紀)

豊後国豊前国はもと一つの国であった。纏向日代宮に御宇しめしし*2大足彦天皇景行天皇)は、豊国直の祖の菟名手に詔して、豊国を治めさせた。天皇豊前国仲津郡の中臣の村に着いた時に、日が暮れたので宿を取った。すると明朝に突然白鳥が北より飛び来たって、この村に集まった。菟名手が従者に見に行かせると、鳥は餅になり、またすぐに数千株の里芋になり、その花と葉は冬になっても栄えた。菟名手が朝廷に参上して、その状を奏聞すると、天皇は喜んで、「天の瑞物、地の豊草なり。汝が治むる国は、豊国と謂うべし」言い、姓を賜って豊国値とした。後に両国を分けて、豊後国となった。(『豊後風土記豊後国

景行天皇の御船が、周防国佐婆津を発って海を渡られた。遥かにこの国をご覧になって、「かの見ゆるは、若し国の崎か」と言われた。よって国崎郡と言う。(『豊後風土記』国崎郡)

天皇は碩田*3国に着いた。その地形は広く大きく麗しい。よって碩田と名付けた。速見邑に着くと女がいた。速津媛と言う。一処の長である。天皇がおいでになると聞いて、自ら迎え奉って申し上げるには、「この山に大きな石窟があり、鼠の石窟と言う。その石窟に二人の土蜘蛛が住んでおり、一人を青と言い、一人を白と言う。また直入県の禰疑野に三人の土蜘蛛が居り、一人を打猿と言い、一人を八田と言い、一人を国摩侶と言う。この五人はいずれもその為人が強力で、衆類も多く、皆『皇命には従わない。もし強いて召そうとすれば、兵を興して防ぐ』と言っている」と。天皇は好ましくないと思われ、進んで行こうとはせず、来田見邑に留まって、仮宮を建ててそこに居られた。天皇が群臣に謀って言うには、「今大いに兵を動かして、土蜘蛛を討とうと思う。もし我が兵の勢いを畏れて山野に隠れたら、必ず後の愁いとなるだろう」と。そこで海石榴*4の木を採って椎*5を作り、それを武器にした。勇猛な兵士を選んで椎を授け、山を穿ち草を薙ぎ払って石室の土蜘蛛を襲い、稲葉の川上に破って尽くその党類を殺した。流れた血が踝にまで至った。時の人は、椎を作った所を海石榴市と言い、血の流れた所を血田と言った。また打猿を討とうとして禰疑山を越えた。まず八田を禰疑山に撃ち破ると、打猿はとても敵わないと思って、服従を申し出た。しかし赦されなかったので、皆自ら谷に身を投げて死んだ。(景行紀)

景行天皇豊前国の京都の行宮より大分郡に幸して、地形を遊覧して嘆じて言うには、「広く大きなる哉、この郡は。碩田国と名づくべし」と。今、大分と言うのはこれが縁である。(『豊後風土記大分郡

景行天皇が球磨贈を誅しようとして筑紫に幸した。周防の佐婆津より船出して渡海し、海部郡の宮浦に泊まられた。時にこの浦に速津媛という女人がいた。そこの長である。天皇行幸を聞き、親ら迎え奉って、奏して言うには、「この山に鼠の岩屋という大きな磐屋があり、土蜘蛛が二人住んでいる。名を青と白と言う。また直入郡の祢疑野に土蜘蛛が三人いる。名を打猿・八田・国摩侶と言う。この五人は為人が強暴で、衆類も多い。皆誹って『皇命には従わない。もし強いて召そうとすれば、兵を興して防ぐ』と言っている」と。天皇は兵を遣わして、その要害を遮り、尽く誅滅させた。これによって速津媛国と言う。後の人は改めて速見郡と言った。(『豊後風土記速見郡

景行天皇行幸した時、祢疑野に土蜘蛛がいた。名を打猿・八田・国摩侶と言う三人である。天皇は親らこの賊を討とうと思い、勅して兵士を遍く労われた。よって祢疑野と言う。(これに続いて蹶石野と球覃郷についても景行天皇にまつわる逸話を載せる)また宮処野と言う地は、天皇が土蜘蛛を討とうとした時、行宮をこの地に建てたことを以て宮処野と言うのである。(『豊後風土記直入郡

大野郡の南に海石榴市と血田と言う地がある。景行天皇が球覃の行宮に居られた。鼠の石窟の土蜘蛛を誅しようと思われ、群臣に詔して海石榴の木を伐採させ、槌を作って武器とし、勇猛な兵士を選んでその槌を授け、山を穿ち草木を薙ぎ倒し、土蜘蛛を襲って、尽く誅殺した。流れた血は踝にまで浸かった。槌を作った所を海石榴市と言い、血の流れた所を血田と言う。(これに続いて網磯野の土蜘蛛の逸話を載せる。『豊後風土記』大野郡)

海部郡の南に穂門郷がある。景行天皇が御船をこの門に泊められると、海の底に海藻が多く生えて、長く美しかった。勅して「最も良い海藻(保都米:ほつめ)を取れ」と言って、御食に献じさせた。よってホツメの門と言う。穂門と言うのは訛ったものである。(『豊後風土記』海部郡)

天皇は日向に着くと、行宮を建ててそこに居られた。これを高屋宮と言う。(景行紀)

熊襲征伐を終えて)尽く襲の国を平らげた。高屋宮に在すこと已に六年である。この国に御刀媛という佳人がおり、召して妃とされた。豊国別皇子を生んだ。これが日向国造の祖である。(景行紀)

子湯直に幸して丹裳小野に遊ばれた。時に東を望んで、「この国は直く日の出づる方に向けり」と言われた。故にこの国を号して日向と言う。(景行紀)

景行天皇の御世、児湯郡に幸し、丹裳の小野に遊ばれて、左右に言うには、「この国の地形は直に扶桑に向かへり。宜日向と号くべし」と。(『日向風土記逸文

 

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景行天皇の巡幸経路(娑麼~球磨)

 

 以上佐波を出港して熊襲を平定するまでが、この巡幸の前半部分になる。因みに豊前国京都郡の名称について『日本書紀』では、景行帝が行宮を置いたことに由来するとしているが、『豊前風土記逸文の中には、古に天孫がこの地を発って日向の旧都に天降ったとして、恐らく天照大神の神京だろうと伝える書もある。或いは大軍を従えた天子の巡幸が、現地の人々には天神の降臨にも見えたということであろうか。そしてこの京都郡の西に隣接するのが田川郡(景行紀では高羽)、南に隣接するのが三毛郡(同御木)、更にその南が宇佐郡(同菟狭)であり、それぞれの川上に土蜘蛛がいた訳である。と言うより景行紀に従うと当時の豊前・豊後地方は、川下の平野部で農耕を営む里人と、川上の山間部を居住地とする土蜘蛛が、時に敵対しながらも依然として併存していたことになる。
 こうして読んでみると、前にも触れた通りこの筑紫親征は、明らかに土蜘蛛征伐の一面を持っていることが分かる。ただ土蜘蛛は数こそ多いものの、個々は至って小さな集団なので、中には誅滅させられた例もあったにせよ、基本的には彼等が武装解除に応じて臣民となり、山奥から出て帰農すれば事が済んだものと思われる。現に同じ土蜘蛛が何度も背いたなどという話はなく、恐らく一旦降服させてしまえば、既にその時点で土蜘蛛ではなくなっていたのだろう。しかし山谷に拠って活動する土蜘蛛に比べて、人口を養うだけの地盤を有する熊襲は遥かに規模が大きく、討伐を受けたと言っても依然として本領そのものは存続しており、自治の範囲内での武装まで放棄させられた訳でもなかったので、その後も幾度となく大和朝廷に反旗を翻している。

*1:みやこ=豊前国京都郡

*2:天の下知らしめしし

*3:おおきた=大分

*4:つばき:椿

*5:つち=槌