史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

応神天皇(応神紀と成務天皇)

応神紀と応神記

 古代国家大和の形成は、まず御間城入彦天皇崇神帝)が四道へ将軍を派遣して周囲を平定し、続く活目入彦天皇(垂仁帝)がこれを継承して国家の礎を築いた。大足彦天皇(景行帝)は実子の小碓尊日本武尊)と共に筑紫と東国を鎮撫して八洲を統一し、稚足彦天皇(成務帝)は郡県を設置して国内を安定させた。足仲彦天皇(仲哀帝)は鎮西の軍を興して筑紫に親征するも陣中に斃れ、気長足姫(神功皇后)は群臣と共に亡夫の遺志を継いで三韓を臣従させた。これを継体したのが誉田天皇(応神帝)である。では古代大和を完成させた誉田天皇とは一体いかなる君主だったのか。まずは史書に沿ってその生涯を追ってみることにする。
 『古事記』に記された応神帝の事績は、他の天皇と同じく后妃子女の列挙と王宮の所在地に始まり、大山守命と大雀命(仁徳帝)の話、近江行幸と宇治の矢河枝比売の話、諸県の髪長比売と大雀命の話、国主の歌と百済朝貢の話、大山守命の反乱の話、天之日矛の話、秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫の話と続き、最後に天皇の子孫を記して終る。このうち二人の姫の話は女性にまつわる家内の伝承であり、天之日矛と秋山春山の壮夫の話は太古の伝説の類だから、実際に応神帝治世下の政治的な出来事と言えるのは、大山守命と大雀命に絡む後嗣選定の話と、それを不服とした大山守命が帝の死後に反乱を起こした話、そして三韓との交流に関する話である。
 一方、物事の起きた年代や順序に関係なく、あくまで話題別に編集されている『古事記』に対して、本紀として成立した『日本書紀』は、時系列に沿って一代の治績を記述するという体裁を取るので、『古事記』のように各項目を分別するのが簡単ではない。試みに応神紀の中でも特に文字数の多い話題を選抜してみると、まずは記と同じく后妃子女の列挙に始まり、武内宿禰の弟の讒言の話、諸県の髪長媛と大鷦鷯尊(仁徳帝)の話、百済朝貢と吉野の国樔人の話、妃の兄媛と淡路行幸の話、武庫の船火災の話と続き、大山守命と大鷦鷯尊の話を記して終る。ただ前記の如く書紀は本紀なので、これらの話題の行間には年代順にいくつかの時事も列記されているが、それ等については順を追って見て行く。

応神紀の初期年表

 まず『日本書紀』では即位前の出来事として、太子だった誉田別尊が越国へ赴き、角鹿の笥飯大神に参拝した時、大神と太子の名を交換したという話を伝える。故に大神を号して去来紗別神と言い、太子を誉田別尊と名付けたというのだが、それならば大神の本の名は誉田別神、太子の元の名は去来紗別尊と言うべきである。しかしそれを示すような記録は見当たらないため、未だ詳らかではないという。一方『古事記』では、これとほぼ同じ話を仲哀帝の項に挿れており、それによると建内宿禰が太子を引率し、禊をせんと淡海から若狭を歴訪して、高志国の角鹿に仮宮を造って留まっていた。するとその地に坐す伊奢沙和気大神が夢に現れて言うには、「吾が名を御子の御名に易えたいと思う」と。そこでその夢見のままに神と太子の名を交換したのだという。
 続いて応神紀では、后妃子女を列挙した後、年代順に応神帝の治績を記して行くのだが、それを大まかに拾い上げてみると、大体次のようになる。

応神三年
冬十月、東の蝦夷が悉く朝貢した。そこで蝦夷を役して廐坂道を造らせた。
冬十一月、各地の海人が騒いで命に従わなかった。そこで阿曇連の祖の大浜宿禰を遣   わして騒ぎを平らげた。よって海人の宰とした。
この年、百済の辰斯王が天皇に対して礼を失した。そこで紀角宿禰、羽田矢代宿禰、  石川宿禰、木菟宿禰を遣わして、その無礼を責めた。百済国は辰斯王を殺して謝し、紀角宿禰らは阿花を立てて王として帰った。
応神五年
秋八月、諸国に令して海人部と山守部を定めた。
冬十月、伊豆国に命じて船を造らせる。長さ十丈の船が完成した。試みに海に浮かべてみると、軽く浮かび疾く進ことは、まるで駆けるようだった。故にその船を名付けて枯野と言った。
応神六年
春二月、天皇近江国行幸して、菟道野のほとりで歌を詠んだ。
応神七年
秋九月、高麗人、百済人、任那人、新羅人等が来朝した。時に武内宿禰に命じて、諸韓人を率いて池を作らせた。よってこの池を名付けて韓人池と言う。
応神八年
春三月、百済人が来朝した。(百済記に言うには、阿花王が立って貴国に礼が無かった。故に我が枕弥多礼、及び峴南、支侵、谷那、東韓の地を奪われた。そこで王子直支を天朝に遣わして、先王の好を修めた。)

 ここまでを『古事記』と比較してみると、この天皇の治世に海人部と山守部が定められたこと、淡海国に幸して宇遲野で歌を詠んだこと(記ではこれに続いて、宇遲能和紀郎子の生母矢河枝比売の話が語られる)、新羅人が参り来たので、建内宿禰に率いさせて百済池を作ったこと等は、同書にも見える。枯野という名の官船についての伝承は、応神記ではなく仁徳記に挿れられており、多少内容も異なってはいるが、これは別に問題ないだろう。またどちらも『百済記』からの引用と思われる辰斯王と阿花王の話も『古事記』には見えない。

甘美内宿禰の讒言

 続いて『日本書紀』では、武内宿禰が讒言を受けた話を伝える。応神九年、天皇武内宿禰を筑紫に遣わして人民を監察させた。時に彼の弟の甘美内宿禰は兄を廃そうとして、天皇に讒して言うには、「武内宿禰は常に天下を望む心があり、今聞くところによると、筑紫に在って密かに謀り『筑紫を裂いて盗り、三韓を招いて己に従わせれば、遂には天下を得られよう』と言っている」と。そこで天皇は使者を遣わして武内宿禰を殺そうとした。宿禰は歎いて「吾は元より二心なく、忠を以て君に仕えてきた。今何の禍によって罪無くして死を賜るのか」と言った。
 ここに壱伎値の祖の真根子という者があり、その為人がよく武内宿禰の姿に似ていた。彼は宿禰が罪無くして空しく死ぬことを惜しみ、宿禰に語って言うには、「大臣は忠を以て君に仕え、今も異心のないことは天下共に知るところである。願わくは密かにここを去って朝廷に参り、自ら罪無きことを弁明し、その後に死んでも遅くはない。時の人は常に『お前の姿形は大臣に似ている』と言う。故に今私が大臣に代って死んで、大臣の清心を明らかにせん」と言い、自ら剣に伏して死んだ。
 武内宿禰は大いに悲しみ、密かに筑紫を去ると船で南海を廻って紀水門に泊まり、辛うじて朝廷に辿り着くと無罪を弁明した。天皇武内宿禰と甘美内宿禰を向かい合せて問い質したが、二人は互いに頑なになって争い、是非を決め難かった。そこで天皇は勅して神祇を請じて探湯をさせた。武内宿禰と甘美内宿禰磯城川のほとりで探湯をして、武内宿禰が買った。そこで彼は横刀を執って甘美内宿禰を打ち倒し、遂には殺そうとした。天皇は勅してこれを赦させ、敗者の甘美内宿禰を紀値の祖に賜ったという。
 以上が応神紀に記された事件の概要だが、既に何度も指摘している通り武内宿禰は成務朝の大臣であり、公称の系図に従えば応神帝は成務帝から見て甥の子なので、そもそも両者には二世代の開きがある。従って仮に宿禰が応神朝で生存していたとしても既に高齢であり、かつて幼い誉田別尊の傳役を託されていた時期はあったにせよ、成人して即位した応神帝から筑紫の監察を任されたのみならず、その赴任中に三韓を巻き込んでの独立割拠を謀り、老いてなお天下を窺うなどというのは、やはり時系列の設定に無理があるだろう。では正史『日本書紀』に記された実の弟による武内宿禰誣告事件の真相とは如何なるものだったのか。

応神紀と成務天皇

 官撰史書である記紀両書には、何故か成務天皇に関する記録が殆ど無いという奇妙な歴史の空白があることは既述した。そして恐らくそれは何らかの特殊な事情によって、成務帝の生涯が意図的に隠蔽されているからであり、失われた成務帝の業績は歴史から抹消されたのではなく、他の天皇の記伝の中に振り分けられたものと考えられる。その一つが垂仁紀に見える朝鮮半島との交流であり、時代的に見てもこれは崇神帝晩期から垂仁帝初期ではなく、景行帝晩期から成務帝初期の頃の出来事であろうと推定されることも既述した通りである。そしてまさにそれと同じことが、応神紀の初頭に並べられた時事についても言える訳である。
 まず応神三年に蝦夷が悉く朝貢して来たという一件については、確かにこれが応神期には相応しくないという訳ではないにせよ、やはりこれは日本武尊が東国を鎮定し、景行帝が東方諸国を巡幸した後、御諸別王が東山道の都督として派遣されたことを受けて、成務帝に代替りした大和に蝦夷の諸族が来朝奉賀したと見る方が、一連の流れとしては遥かに自然であろう。もともと大和の方も蝦夷に対しては、西方の熊襲や土蜘蛛と異なり、辺境を侵さない限り平和共存という姿勢だったので、その後も両者の関係がそれほど逼迫することはなかったようである。
 同じことは同年の海人の騒乱についても言えて、これは古代封建体制らよる全国統治を進めようとしていた大和朝廷と、昔ながらの生活を営んでいた海人達との間に、各地で軋轢が生じていたのだろう。そこで一時的に大浜宿禰を海人の宰とし、後に改めて海人部と山守部を定めることで、朝廷の方針と非農系住民との間に発生する問題を解決しようとした訳である。山守部については、既に景行朝で各地の土蜘蛛を討伐していたことが、その設置を可能にしたものと思われる。因みに成務紀には、成務四年に先帝の業績を称え、国郡に長を置き、県邑に首を置くことを決定し、翌五年には諸国に令して国郡に造長を立て、県邑に稲置を置き、それぞれ盾矛を賜ったとある。
 次に武内宿禰が半島諸国からの使者を率いて池を作ったという一件だが、これも当時の国際情勢からすると、有り得ないとまでは言えないが、適時性という点では些か疑問が残る。まず当時の時代背景として、応神帝の治世は西暦で言う五世紀の初頭であり、この頃の大和は高句麗との戦争に大敗して、新羅に対する宗主権と旧弁韓領一部での覇権を失ったばかりだった。一方高句麗の傘下に入った新羅とは逆に、一貫して「反高句麗・新大和」の立場を取る百済は友好国であると同時に戦友であり、任那は大和の内宮家即ち直轄領になっていた。従ってこうした状況から察する限り、この一件もまた垂仁紀の半島関連の記事と同じく、成務期の外交の記録が応神紀に編入されたと推定するのが妥当かと思われる。垂仁紀ではなく応神紀になったのは、恐らく武内宿禰が絡んでいたからだろう。

武内宿禰の野心

 武内宿禰が実の弟から謀反を密告されたという応神九年の事件について言えば、もはやこれは議論するまでもなく、時の天皇は応神帝ではなく成務帝と考えるのが自然であろう。確かに度重なる朝鮮出兵で疲弊した九州諸国を案じた応神帝が、現地の実情を知るために腹心を派遣した事実はあったかも知れないが、世代的にもそれが武内宿禰である可能性は極めて低い上に、即位九年目では余りにも遅い。では武内宿禰が監察使として筑紫に赴任したのが事実だったとして、果してそれがいつ頃のことだったのかとなると、やはり可能性が最も高いのは景行帝による筑紫平定後の成務朝初期であろう。殊に『国造本紀』等では筑紫の国造の多くが成務期に設置されたとあることから、恐らく国県の配置に先立って民情を視察させたか、或いは赴任した領主等の政治を監察させるのが、その目的だったと思われる。
 甘美内宿禰が兄の言葉として密告した「筑紫を盗って三韓を従えれば天下を得られる」というのは何ともきな臭い台詞で、これこそまさに武内宿禰神功皇后を担いで実行した作戦そのものであり、仮にこの誣告事件が成務朝での出来事だったとすると、その後の彼の行動に対する見事なまでの伏線になっている。そして宿禰がこの戦略を立案し、且つ実行に移すためには、高句麗の介入を無視できることが絶対条件であり、同国との戦争を経た応神期ではもはや無理な芸当だった。また宿禰が成務朝で筑紫の監察使を経験していたとすれば、後年仲哀帝の征西に従った時点で既に、彼は筑紫や三韓の情勢を熟知していたことになる。
 またこの事件で興味深いのは、天皇が甘美内宿禰の讒言を信じて、一度は武内宿禰に死を命じていることだ。そしてもしこの時の天皇が成務帝だったとすると、二人の間には太子時代からの厚い信頼があると思われているだけに、少々意外な展開ではある。更には密かに筑紫を去った後、やっとの思いで都へ辿り着いた宿禰が直接弁明したにも拘らず(尤も彼は筑紫で自刎したことになっていたのだが)、弟との直接対論でも自らの主張を支持してもらえず、遂には大臣の身で探湯までさせられたことは、宿禰にとっても心外だったろう。後年彼が成務帝の実子でもない仲哀帝や、皇族とさえ言えないその後妻に肩入れしたのは、案外そんなところに遠因があったのかも知れない。