史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

日本武尊(熊襲征伐)

日本書紀に描かれた日本武尊

 景行天皇こと大足彦忍代別天皇は、前皇后の播磨稲日大郎姫との間に双子の皇子を儲けた。双子の名は、兄を大碓皇子、弟を小碓尊と言い、小碓尊を称して日本武尊(記は倭建命に作る)と言う。日本武尊熊襲征伐と東国平定については、記紀共にほぼ同じ話を伝えており、原典となる共通の伝説があったことを窺わせる。しかし『日本書紀』では日本武尊に先立って行われたとされる景行帝の筑紫巡幸が、『古事記』では全く語られていないなど、物語の前後で両書にかなりの相違が見られる。そこで記紀それぞれに記された日本武尊熊襲征伐を読み比べてみると、次のようになる。
 まず『日本書紀』によると、小碓尊は幼い頃から雄々しい気性で、壮じては容貌に優れて溢れんばかりの逞しさであり、身長は一丈にも達し、その力は鼎を挙げることができたという。景行帝が筑紫巡幸から凱旋したのは景行十九年のことであり、八年後の同二十七年に再び熊襲が叛いて頻りに辺境を侵したので、日本武尊を遣わして熊襲を討たせることになった。時に十六歳だったという。尊が「弓射に優れた者を供に連れて行きたいと思う。どこかに弓の名手はいないか」と言うと、ある者が美濃国に弟彦公という弓の名人がいると進言した。そこで尊が人を遣わして弟彦を召すと、弟彦はついでに石占横立及び尾張の田子稲城・乳近稲城を率いてやって来て、日本武尊のお供をした。
 熊襲に到った日本武尊は、まず人々の様子やその地形を観察した。時に熊襲に魁帥という者がいて、名を取石鹿文または川上梟帥と言い、悉く親族を集めて新築祝をしようとしていた。尊は髪を解いて童女の姿になると、密かに川上梟帥の宴の時を窺い、剣を衣の中に佩いて梟帥の宴の室に入り、女供の中に交じった。やがて夜が更け、酒宴の人々もまばらになり、梟帥にも酔いが回った頃、尊は衣に隠した剣を抜いて梟帥の胸を刺した。すると息絶える前に梟帥が尊に向かい、「しばし待ち給え、我物申さん」と言ったので、尊は剣を留めて待った。
 川上梟帥が「汝尊は誰人ぞ」と尋ねたので、尊は「大足彦天皇の子なり。名は日本童男という」と答えた。梟帥がまた言うには、「吾は国中の強力者である。よって時の諸人は我が威力を畏れて、従わぬ者はない。吾は多くの武人に遇ったが、未だ皇子の如き者を見たことがない。そこで賤しい賊の卑しい口から尊号を奉りたい。許し給うや」と。尊が「許そう」と答えたので、梟帥は「今より以後、皇子を号し奉って日本武皇子と称すべし」言い、その言葉が終ると胸を貫いて殺した。今に至るまで日本武尊と称えるのは、これが由来である。その後に弟彦等を遣わして、尽くその党類を斬らせた。事を終えると海路より大和へ帰還し、吉備の穴海を渡った際に、その地の荒ぶる神を殺し、また難波まで還り到った時に、柏済の荒ぶる神を殺した。景行帝は日本武尊の功を褒め称えて、特に愛したという。

古事記に描かれた倭建命

 以上が『日本書紀』の概要だが、『古事記』は次のようなものである。ある時、大碓命が朝夕の会食に顔を出さない日が続いたので、景行帝は小碓命に「なぜ汝の兄は朝夕の大御食に参り来ないのか。汝から参るように諭せ」と言った。しかしそれから数日経っても大碓命が現れないので、景行帝が再び小碓命に「なぜ汝の兄は久しく参内しないのか。まだ諭していないのか」と問うと、小碓命は「既に諭した」と言う。「何と諭したのか」と問うと、「明け方に厠に入るのを待ち掴まえて、踏み潰して手足を縛り、薦に包んで投げ棄てた」と言う。ここに天皇は御子の荒々しい気性を畏れて、「西の方に熊曾建が二人いる。国家に従わぬ礼無き人等である。故にその人等を討て」と詔し、小碓命を熊曾に遣わした。
 時に小碓命は髪を額に結っていた(年の頃十五六の意)。叔母の倭姫命から御衣裳を賜り、剣を懐に納めて出立した。そして熊曾建の家に到って見てみると、周辺を軍が三重に囲んだ室の中に居り、落成の酒宴を設けようと食物を準備しているところだった。そこで近くを歩き見ながら宴の日を待ち、いざ宴の日が来ると、髪を垂れ倭姫命の御衣裳を着て童女の姿となり、女人の中に混じってその室に入って行った。やがて宴も酣になった頃、懐から剣を取り出し、熊曾の兄建の衿を掴んでその胸を刺すと、弟建がそれを見て逃げ出したので、追って行き背中から刺し通した。すると弟建が「その刀を動かしますな。申すことあり」と言うので、小碓命は暫し許して押し伏せた。
 弟建が「汝命は誰ぞ」と尋ねたので、小碓命は答えて「吾は纏向の日代宮に坐しまして大八島国知らしめす大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王である。汝等熊曾建二人、伏さず礼無しと聞し召されて、汝等を討ち取れと詔して遣わされたのである」と言った。ここに弟建が言うには「真に然ならん。西の方に吾等二人をおいて猛く強き者はない。然るに大倭国に吾等二人に勝る猛き男が居られた。これを以て御名を奉らん。今より後は倭建御子と称うべし」と。言い終ると熟した瓜のように振り断って殺した。故にその時より御名を称えて倭建命と言うのである。そして還り上る時に、山の神、河の神、穴戸の神を皆言向け和して帰還したという。続いて同書では、倭建命が出雲へ入り、出雲建を殺した話を伝えるが、これについては既述したので省く。

日本武尊と筑紫巡幸

 こうして読み比べてみると、記紀共にほぼ同じ話を伝えていることが分かる。ただこれを景行帝の筑紫巡幸や後の東国征伐と並べてみると、恐らくは誰もが気付く筈の不可解な点が二つある。まず一つは、日本武尊が女装をして梟帥の屋敷へ忍び込み、梟帥が酔ったところで刺し殺すという件が、景行帝による女を使った梟帥謀殺の話に酷似していることである。確かに事実は小説よりも奇なりということも多々あるから、酒席に敵の侵入を許して時の頭目を殺された熊襲が、数年後に再び同じ轍を踏んだ可能性も否定はできまいが、やはり現実的な仮説の確率としては余りにも低いと言えるだろう。
 もう一つは、往路の行程についての記録が全くないことで、記紀共に大和を出立した日本武尊は、まるで瞬間移動でもしたかのように、その直後には熊襲梟帥の家の前にいるのである。またいかに皇子とは言え、元服前の少年が総大将というのは有り得ない話で、そもそもこの熊襲征伐については軍を動員した形跡もなく、尊を補佐した筈の皇族や重臣の名も残っていない。敵地で尊と共に梟帥の屋敷へ討ち入ったという弟彦等にしても、あくまで弓の名手であって朝廷の重臣ではない。因みに成人後の日本武尊が行った東国遠征に際しては、『日本書紀』では吉備武彦と大伴武日、『古事記』では吉備臣等の祖の御鉏友耳建日子(吉備武彦か)が、それぞれ副将として付けられている。
 これを解く鍵が景行紀の中にあって、後に日本武尊が東征の陣中に病没したという報せを受けた景行帝は、我が子の早過ぎる死を歎いて次のように言ったという。「我が子の小碓王、昔熊襲が叛いた時、未だ総角もせぬというのに、久しく征伐に苦労し、常に左右にあって朕の及ばぬところを補ってくれた。東の蝦夷が騒ぎどよめいて、他に討たせる者もなかったので、愛おしさを忍んで賊の地に入らせた。ただの一日も顧みぬことはなかった。朝夕に還る日を待ち続けた。何の禍か何の罪か、思いがけず我が子を亡くしてしまった。今より以後、誰と共に鴻業を治めようか」と。
 これを読む限り、明らかに日本武尊は景行帝の筑紫巡幸に同行している。つまり当時まだ十代半ばの少年だった小碓尊が、父に従って九州各地を転戦し、数年に渡って帝の左右に侍っていた訳で、もしこれが事実ならば、その巡幸の帰還から更に数年後に、同じく十代半ばの小碓命が再び熊襲へ遠征することなど有り得ない。従って日本武尊による熊襲征伐というのは、景行帝による熊襲征伐とは別に再度行われたものではなく、あくまで巡幸の一部だったと考えるのが妥当であろう。そうした視点から梟帥謀殺の一件を見てみると、まず賄賂を使って内応者を作った皇軍が、敵の首領である梟帥が落成式を開くという情報を得て、その酒宴の場に皇子の小碓尊率いる兵士を潜り込ませ、敵が酔い潰れたところを一気に誅殺したという具合に、一個の作戦として見事に繋がる訳である。
 そして日本武尊による熊襲征伐が、景行帝による筑紫巡幸の一環として為されたものであれば、大和出立から熊襲到着までの足跡がないのも不思議ではない。特に『古事記』の方は景行帝の筑紫巡幸を伝えていないので、倭建命が熊曾建の家の前に立つところから唐突に物語が始まってしまう訳だが、ではなぜ景行帝の巡幸と日本武尊の武功を分けて伝えなければならなかったのか、或いはなぜ分かれる形で伝わってしまったのかは不明である。また記紀共に復路では日本武尊が各地の賊を討伐しながら帰還したと記しているが、出陣の時点では十代半ばの少年だった小碓尊も、凱旋時には二十代前半の若者に成長していた筈だから、別動隊として賊の討伐を任されたくらいは十分考えられるだろう。

美濃と景行天皇

 また兄の大碓御子について『日本書紀』では次のような逸話を伝えている。東方で蝦夷が頻りに辺境を侵すので、景行帝が群卿を前にして、東国鎮定の将として誰を遣わしたら良いかと尋ねたが、群臣は誰も答えられなかった。そこで日本武尊が奏上して、先に自分は熊襲を討ったので、この役は兄の大碓王が事とすべきだと進言したところ、大碓御子は怖気づいて身を隠してしまった。景行帝は使者を遣わして大碓王を呼んで来させ、責めて言うには「汝が行きたくないと言うものを、どうして強いて遣わすことがあろうか。敵に向かう前から怖れるとは何たる様か」と。そこで大碓御子は美濃に封じて領地に赴かせたという。
 そして当然この話は、朝廷で開かれる朝夕の会食に大碓命が顔を出さなくなったため、参席するよう弟の小碓命に諭させたという『古事記』の話に繋がる訳である。尤も事件の起きた時期については、『日本書紀』が東国平定の前、『古事記』が熊襲征伐の前としており、熊襲征伐を挟んで両書に相違も見られるが、これは別にどちらでも大差ないだろう。もともと歴史というものは、得てして断片的にしか伝わらないことが多く、まして記紀の原型は文字もない時代の口伝を筆記したものなので、そうした歴史の破片を一つ一つ繋ぎ合せて行く作業が必要になる。やがて別々に伝わっていた無数の破片が一つの物語として繋がった時、或いはまだ見ぬ真実の輪郭に触れることもできるだろう。
 ここで何度か美濃の地名が出てきたが、美濃は景行帝にとっても縁のある土地で、景行紀によると、即位四年目に初の行幸地となったのも美濃であり(尤もその前年、紀伊行幸して諸々の神の祭祀をしようと占ったところ、吉と出なかったので中止したという)、この時の美濃行幸天皇に召し出されたのが、前皇后の播磨稲日大郎姫日本武尊の母)の死後に後皇后となる八坂入媛(成務天皇の母)である。また小碓尊熊襲梟帥討伐に従った弓手も美濃出身なら、大碓御子が封ぜられたのも美濃であり、景行朝と美濃の間には関係浅からぬものがある。そしてこの美濃という土地と、吉備氏という皇族が、天皇の出自を知る上での重要な鍵となっている。