史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

仲哀天皇の妻子

仲哀天皇の実像

 ここで仲哀天皇の血統をもう一度確認しておくと、父は景行帝皇子の小碓尊日本武尊)、母は垂仁帝皇女の両道入姫命であり、史書に従えば両親は甥と叔母の関係になる。続いて仲哀帝の子女について記紀では、従姉妹の大中姫との間に麛坂皇子と忍熊皇子、皇后気長足姫との間に誉田別皇子、更に誉屋別皇子という計四人の男子を儲けたとする。この誉屋別皇子の出自に関しては両書に相違が見られ、『日本書紀』では来熊田造の祖の大酒主の女の弟媛を生母とするのに対して、『古事記』には「また息長帯比売を娶して生みませる御子、品夜和気命、次に大鞆和気命、亦の名は品陀和気命」とあり、応神帝の同母兄とする。新撰姓氏録には子孫の名も記されているが、皇子自身は元より子孫が活躍した形跡も特に見当たらないので、もともと皇位継承からは外れていたようである。
 そして史書の設定に従えば、気長足姫が男児を出産した直後に麛坂王と忍熊王は挙兵し、次の皇位を巡って皇后方と一戦を交えている。同じく記紀の描写を見る限りでは、挙兵の時点で既に二王は成人しており、開戦そのものが両者の意志だったとされている。ただ不可解なのは記紀に於ける二人の呼称が、『日本書紀』では「麛坂王・忍熊王」、『古事記』でも「香坂王・忍熊王」となっていることで、先帝の実子でありながら両書に於いてその尊号が、「皇子」でも「命」でもなく単に「王」なのである。無論天皇の子であっても生母の身分等で王とされる場合もあるが、史書の系譜が事実であれば、景行帝の皇孫を母に持つ麛坂・忍熊兄弟には当て嵌まらないだろう。
 また史書に記された仲哀帝の皇子は前記の四人だけなので、挙兵の時点で二王が成人していたとすると、大中姫との間に二人の男子を儲けてから、天皇の死後に気長足姫が男児を出産するまでの間に生まれた子供は、誉屋別王という何とも影の薄い男子一人だけだったことになる。確かに類似の事例がない訳ではなく、これを徳川家康の場合で見てみると、家康が正妻築山殿との間に長男信康を儲けたのは弱冠十七歳(満十六歳)の時で、その後はしばらく男子に恵まれず(女子は二人いる)、ようやく次男秀康が生まれたのは家康が三十二歳の時であり、二代将軍秀忠が生まれたのは更にその五年後なので、信康と秀忠の年齢差は実に二十歳である。
 従って麛坂・忍熊王と気長足姫の産んだ男児の年齢差が仮に事実であったとしても、それ自体は必ずしも特殊な事例という訳ではないのだが、むしろその設定を不確定なものにしているのは仲哀帝自身の年齢なのである。前述の通り記紀では仲哀帝の享年を五十二歳としており、これを素直に読めば、別の女性との間に二十歳ほど年の離れた子供を儲けていても不思議ではない。しかし記紀両書に録された欽明帝以前の歴代天皇と比較してみると、この五十二歳という数字はとても鵜呑みにできるものではないことが分かる。そこで試みに崇神帝から雄略帝までの天皇とその年齢を、①天皇、②『日本書紀』での年齢、③『古事記』での年齢という形で並べてみると次のようになる。

崇神天皇 ②120歳 ③168歳
垂仁天皇 ②140歳 ③153歳
景行天皇 ②106歳 ③137歳
成務天皇 ②107歳 ③95歳
仲哀天皇 ②52歳 ③52歳
神功皇后 ②100歳 ③100歳
応神天皇 ②110歳 ③130歳
仁徳天皇 ②記載なし ③83歳
履中天皇 ②70歳 ③64歳
反正天皇 ②記載なし ③60歳
允恭天皇 ②記載なし ③78歳
安康天皇 ②記載なし ③56歳
雄略天皇 ②記載なし ③124歳

 因みに『日本書紀』の方は、帝紀の年表から天皇の年齢を計算できなくもないが、享年が明記されていない限りは「記載なし」とした。また履中・反正・允恭の三帝と、安康・雄略の二帝は兄弟相続である。こうして見比べてみると、仲哀帝神功皇后以外は、記紀両書で全く一致していないのが見て取れる。そして王の年齢という史書の中で最も重要な筈の数字でさえこの有様だから、記紀に振られた干支や年号などは殆ど当てにならないと思ってよい。何しろ『古事記』では仁徳帝が八十三歳で崩じたとしながら、『日本書紀』では同帝の治世が八十七年に及んだとしているくらいなのである。
 面白いのは允恭帝で、『古事記』と『旧事紀』は共に享年七十八歳としており、『日本書紀』は帝の年齢にこそ言及していないが、その治世を四十二年とし、「時に年若干」で崩じたとしている。尤も允恭紀は二十四年から四十二年までの記録がないので、仮に在位期間を二十数年と見たにしても、他書では七十八歳で崩じたとされ、在位二十年以上に及んだ允恭帝が「年若干」だったというのだから、在位僅かに九年、前に挙げた十三柱の中で最も若年である仲哀帝ならば猶更若干であろう。少なくとも崩御の時点で既に成人した実子がいたとは到底思えない。

麛坂王と忍熊王とは誰か

 では仲哀帝が志半ばにして世を去った直後、皇后や大臣と天下を争った麛坂王・忍熊王とは一体誰だったのか。恐らく考えられるのは次の三つである。まずこの二王が本当に仲哀帝と大中姫の子だったとすれば、天皇が急死した時にはまだ年端も行かぬ子供だった筈なので、気長足姫が我が子を擁して凱旋する構えを見せたのに対抗して、留守居役の重臣達に御輿として担ぎ出されただけの存在だったというものだ。ただいかに天下分目の決戦の結果とは言え、流石に罪もない幼子を自決に追いやったなどと語り継ぐ訳にもいかず、公伝上は二人が成人していた(つまり自己責任だった)かのように取り繕ったのだろう。まして本来その二王子こそが正統な後嗣だったならば猶更である。
 同じく麛坂王と忍熊王が仲哀帝の皇子で、その母親が大中姫だったとすると、史書では気長足姫を唯一無二の皇后のように扱っているが、彼女が最初から足仲彦尊の正妻だった可能性はまずない。何しろ大中姫と気長足姫では家格に雲泥の差があるので、身分の低い気長足姫が天皇の正妻になれた理由として考えられるのは、大中姫が若くして薨じたため後妻に迎えられたか、もしくは側室から昇格したかである。子がなかったところを見ると前者かも知れない。そしてこの図式から二王の乱を見てみると、亡き大中姫の子を戴いて正統を主張する廷臣等と、先妻の子を排して我が子を立てようとする皇后という、両者の立場がより一層明確になる。
 次に麛坂王と忍熊王の兄弟が、史書にある通り挙兵の時点で既に成人しており、且つその母親が大中姫だったとすると、逆に父親が仲哀帝である可能性はなくなる。ではその場合の二人の父親は一体誰なのかという問題だが、史書の系譜に従えば仲哀帝と大中姫は従兄妹の関係にあり、小碓尊や成務帝から見ると姪に当たる。そして当時は叔父と姪の結婚が珍しくなかったことを考えると、麛坂王と忍熊王小碓尊の子、つまり仲哀帝の異母弟だった可能性もある。いずれにせよ夫の死後も西国から帰京しようとせず、先帝の本葬も先延ばしにしたまま、幼い我が子を擁して大軍を手放そうともしない気長足姫とは相容れない間柄だったろう。
 次に考えられるのは、仲哀帝と大中姫の間に皇子がいたのは事実だが、神功皇后率いる遠征軍との決戦を主導した皇族とは別人だったというものだ。つまり仲哀帝の死後に後継者を巡って国内が割れた際、大中姫との間に儲けた皇子は余りにも幼かったため端から蚊帳の外に置かれており、既に成人していた他の皇族による反乱劇が、時を経て仲哀帝の子を首謀者とする事件に書き換えられた訳である。何やら突拍子もない話のように聞こえるかも知れないが、実は歴史上よくあることで、案外これが真相かも知れない。では反乱を主導した二王が仲哀帝の子でなかったとすれば、果して彼等は誰に連なる血統を根拠にして皇位を主張し、いかなる事情から仲哀帝の皇子として後世に伝えられたのか。いずれ解答を求めなければならない問題には違いないが、ここでは敢て踏み込まずに先へ進む。