史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

神功皇后から応神天皇へ

九州に伝わる伝承

 応神天皇神功皇后にまつわる伝承の中に、昔何かの本で読んだ忘れられない話がある。その著者も書名も失念してしまったのが残念だが、その内容だけは今もはっきりと覚えていて、それは次のようなものだった。神功皇后が九州に居た時、男児を出産した。父親は武内宿禰だった。やがて応神天皇が大和から兵を率いて攻め下ってきた。九州の兵士達は皆神功皇后天照大神の再来と信じて皇后と共に戦った。しかし戦は応神天皇が勝ち、皇后は捕えられ、その子と大臣は殺された。この戦で九州の勇者が多く戦死した場所を今に千人塚と言うと。
 元よりこの伝承が史実だと言うつもりはないし、どこにでもある昔話の一つに過ぎないかも知れない。しかしこの話が興味深いのは、神功皇后の睡蓮政治を終らせるには恐らくこれ以外に方法がなかったろうと思われることである。何しろ仲哀帝亡き後の皇后は、まず先帝の遺志を継いで熊襲を征伐すると、朝鮮出兵を断行して新羅を臣従させ、帰国後は忍熊王率いる反対勢力を一蹴して都に凱旋、筑紫で出産した我が子を擁して国権を掌握し、傍らには成務朝の大功臣である武内宿禰が常に侍っていた。従ってこの状態を維持したまま皇后が権力の座にある限り、この政権を内部から打倒するのは至難の業となる。言わば皇后と大臣による王不在の政治に終止符を打つためには、先ずどうにかして両者を都から引き離す必要がある。
 例えば漢の呂后を始めとして、一度権力を握ってしまった女性から、その座を奪回するのが甚だ困難なのは、基本的に彼女達は自分が権力を振るえる場所から決して離れようとしないからである。そのため知者や能臣でさえ、事態が悪化の一途をたどっていると知りながら、結局は彼女達が死ぬまで何も変えられないという苦境に陥る。しかしその一方で彼女達の営巣する権力形態は、もともと然るべき大儀も正統性もない理不尽なものなので、その虚構の根源さえ取り除いてしまえば一気に崩壊するのが道理である。そして良識ある者は皆それを知っているから、その日が来るまでただひたすら身を屈して機を窺っている訳である。
 そうした視点から前の伝承を見てみると、皇后と大臣が揃って遠く九州に居るという状況は、反皇后派にとってはまさに願ってもない挙兵の好機だったと言える。ただ恐らくここで皇后が九州に居た時期というのは、新羅征伐を終えて筑紫で出産した直後ではなく、都でしばらく摂政として王権を代行した後、何らかの事情で再び西国へ赴いていたものと思われる。そして本来ならば都を離れたくない皇后が、わざわざ九州まで下向した可能性があるとすれば、その理由として考えられるのはやはり再度の朝鮮出兵であろう。
 確かに日本の史書には、新羅征伐から都へ凱旋した気長足姫が、再び筑紫に滞在したという記録はない。しかし神功紀の新羅再征以降の記述を読むと、荒田別と鹿我別を将軍として卓淳国へ遣わした翌年から三年間、百済の使者久氐が毎年来朝したことを伝えている。また当時の交通事情を考えると、いかに身軽な使者とは言え、毎年のように百済畿内を往復できたとは考えにくい。従ってこの一事は新羅再征から高句麗遠征までの数年間、朝廷の機能が筑紫に置かれていたことを暗示するものかも知れない。そして前述の通り摂政五十二年(西暦四〇三年か)に久氐等が千熊長彦に従って来日し、七枝刀や七子鏡を献じた一件を以て実質的な神功紀は終る。

応神天皇関ケ原

 また前の伝承でもう一つ注目すべき点は、応神帝が畿内から九州へ攻め下ったとしていることである。何故なら朝廷の実権を握っていた皇后と大臣が滞在する九州へ攻め入るということは、誉田別尊側にそれを可能とする条件が揃っていたことを意味しているからだ。即ち誉田別尊がこの戦いで勝利した暁には、当然次の天皇として即位する訳だから、彼は皇位を継承するだけの正統性のみならず、群臣に支持されるだけの人望を有する皇族で、挙兵以前から有力な後継者と目されていた人物でなければならない。そして漢では呂后の死から僅か三か月で文帝が擁立されたように、恐らく大和朝廷でも神功皇后後を見据えて水面下では応神帝推戴の計画が進行していたのだろう。
 実のところ敵対する両陣営のどちらか一方が、合戦の場所を優先的に決められる立場にあるとして、その戦場がどこに選定されたのかを観察すれば、それを採択した陣営の置かれた状況や戦力が見えてくるものだ。例えばこれを関ケ原の合戦で見てみると、時の豊臣政権を二分した東西両軍が、なぜ濃州関ケ原で激突したのかと言えば、西軍の方が予め同地を決戦の場にする作戦を立てて行動したからである。そしてその関ケ原徳川家康率いる東軍の迎撃場所に決定したのは、この合戦の首謀者の一人であり西軍の参謀でもあった石田三成だが、彼が大阪籠城案のような消極策を尽く退けて、全軍を関ケ原に集結させたのは、当時の西軍の置かれた状況や戦力を考えれば、可能な限り最善の策だったと言ってよい。
 もともと関ケ原の合戦は、前田利家亡き後の豊臣家中にあって、五大老筆頭として幼主秀頼をも凌ぐ権力を手中にしていた徳川家康を排除するため、反家康派の諸侯が結託して引き起こしたものである。事の発端は、やはり五大老の一人であった上杉景勝が、許可を得て帰国したまま上洛に応じようとせず、更には国元で不穏な動きをしているとの報告が相次いだことから、家康が諸将と協議して上杉討伐を決定したことに始まる。この景勝が上洛を拒否して家康を動かすという策略は、豊臣家五奉行の一人だった石田三成が、懇意にしていた上杉家家老の直江兼続と共謀したもので、家康が諸将を率いて東国へ出陣するや三成は暗躍を始め、遂には三奉行の連著で家康の横暴を糾弾する文書を公布して諸侯に決起を促した。
 当時既に嫡子の秀忠が成人していた家康は、領国を秀忠や重臣に任せて自身は京大阪に常在できる立場にあったが、家康が五大老筆頭として幼主秀頼を補佐している限り、彼に権力が集中することを快く思わない者達も為す術がない。そこで何とかして家康を朝廷や秀頼から引き離すべく画策したのが、景勝の割拠を口実に家康を出陣させるという絵図だった訳である。無論上杉の方も無償で標的となった訳ではなく、これを機に旧領の越後を奪回し、羽前から越後に至る広大な領土を手に入れるのが本心であり、西軍に与した他の諸侯にも当然それぞれ思惑はあった。そしてそれは家康にしても同じことで、彼は自分が京大阪を離れれば反対派が挙兵することを察しており、それを懸念した役人等が出陣を思い止まるよう諭したが彼は聞き入れなかった。何故ならここで隠れた敵を焙り出さなければ、それを一掃できないのは家康も同じだったからである。
 関ケ原の結果は日本人ならば知らぬ者のない常識だが、東西両軍の勝敗を分けた要因を考察したとき、やはり最も大きいのは総大将の有無だったと言えるだろう。まず東軍を見てみると、家康に従って上杉征伐に参戦し、そのまま関ケ原では東軍に与した諸侯の多くは、万世豊家に足を向けて寝られぬような者達ばかりだったが、そうした豊臣恩顧の大名でさえ家康の指揮には服していた。一方の西軍はと言うと、形式上の総大将は毛利家当主の輝元だったが、彼は領国から万余の兵を率いて大阪まで馳せ参じながら、大阪城に腰を据えたまま出陣しようとせず、結局関ケ原には参加することなく終戦を迎えた。そのため改めて関ケ原の布陣図を見てみると、東軍は前線に展開する部隊の最後方に家康の本隊が控えているのに対して、西軍は本来あるべき毛利本隊がないため、まるで宇喜多隊が大将軍のような配置になってしまっている。
 そもそも上杉が囮となって家康を関東まで誘き出しておきながら、引き返してくる彼を不破関で待ち構えていること自体、西軍が一枚岩ではなかったことを如実に現していて、要はそれ以外に方法がなかった訳である。もし西軍にも諸侯を纏め上げられるだけの大将がいれば、出て行った敵が戻るのを座して待つような真似をせず、上杉討伐軍を追う形で自らも大軍を率いて出陣し、領主不在の東海道東山道を征圧した上で、動揺する家康麾下の諸将を調略しようとしただろう。そして本来は三成もそうしたかったようで、開戦前に友人へ宛てた手紙の中には、東海道で家康を討つ算段があると記したものが残っている。尤も反徳川派の大名の中にそれを実行できるだけの人物がいれば、家康も敢て上方を留守にするような危険は冒さなかったろうが。
 こうした視点からもう一度忍熊王の挙兵を振り返ってみると、いかに仲哀帝が崩じているとは言え、当時の皇后は新羅征伐の凱旋軍であり、やはり船を並べて明石海峡を封鎖したくらいでは、その勢いを押し止めるのは甚だ困難だったと思われる。現にその後の忍熊王は文字通り敗退に次ぐ敗退であり、遂には王城の地である近江まで追撃され、五十狭茅宿禰と共に入水して果てたという最期は記紀で共通している。恐らく忍熊陣営としては、皇后方から自軍の支持者が出ることを期待していたのかも知れないが、史書にはそうした友軍があったという記録はなく、それは関ケ原にしても同様であり、東西両軍のうち敵へ寝返った豊臣恩顧の大名は皆西軍だった。そう考えると応神帝が筑紫へ攻め入って神功皇后を撃ち破ったという伝承が、俄かに現実味を帯びてくることになり、皇后から誉田別尊への政権移行を読み解く上で、容易く聞き流せないほどの重みを持ってくる訳である。

鎮魂の言霊

 では応神天皇神功皇后の子ではなかったとすると、なぜ両者は親子という形で後世に伝えられたのだろうか。恐らく考えられるのは次の二つである。まず一つは、皇后が自身の正当性を神意に委ねていたことだ。要は新羅を臣従させたのが神の導きであったように、皇后が身籠っていることを教えたのも、そのお腹の子が国を得ると告げたのも神であり、もし彼女の産んだ子がこの国を治めなければ、それは神意に背くことにもなる訳である。尤もその神託にしても、神憑ってそれを語ったのは他ならぬ皇后であり、仲哀帝を除けばその場に同席していたのは武内宿禰だけであり、神が与えた筈の新羅に叛かれて高句麗に奪われるなど、十年の時を経て次第にその効力にも陰りが見え始めていたのだが。
 もう一つは、皇后が我が子の即位に固執していたことだ。神託では先帝崩御の時点で既に皇后が懐妊していたことになっているが、史書の時系列に従えば彼女は夫の死後に妊娠している。言わば皇后の産んだ子は皇位継承権すら持たない可能性もある訳で、否むしろそうであるが故に彼女は我が子が即位することだけを冀った。従ってそれを阻止したい廷臣達にしてみれば、その子が成人する前に皇后と大臣から国権を奪回しなければならない。因みに前の伝承では、皇后が産んだ子の父親を武内宿禰としているが、元よりこれは何ら確証がない。例えば太閤豊臣秀吉は晩年になって側室淀殿との間に二児を儲けたが、その子等の真の父親さえ未だ解明されていないのだから、況や更に千二百年も前の神功皇后の子の父親など今となっては知る由もあるまい。
 「言霊」という言葉がある。言葉に宿る霊魂やその力を表した言葉であり「言魂」とも書く。殊に日本は「言霊の国」とも言われ、言葉の持つ霊力が古くから信仰されてきた。恐らく応神天皇神功皇后の子として後世に伝えたのも、それを言葉にして語り継ぐことによって神の怒りを抑え、気長足姫の霊魂を鎮めるためだったと思われる。やがてその言葉は真実となり、誰もが誉田別尊は気長足姫の子であり、神功皇后の子が皇位を継いだと信じて疑わなくなった。では言霊による鎮魂の祝詞を解いたとき、そこにはどんな史実が見えてくるのだろうか。それを解く鍵は応神天皇仁徳天皇にある。