史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

垂仁天皇(まとめ)

殉死の廃止と埴輪の起源

 垂仁帝の有名な治績の一つに、殉死の廃止と埴輪の起源に関する話がある。『日本書紀』に伝えるところでは、天皇の同母帝倭彦命が亡くなった時、その近習者を集めて、尽く生きたまま陵域に埋め立てた。日を経ても死なずに昼夜泣き呻き、遂に死んで腐ると犬鳥が集まってこれを食った。天皇はこれに心を痛めて、群卿に詔して言うには、「主人が亡くなった時に、生前愛しんだ人々を殉じさせるのは、甚だ傷ましいことである。古よりの風であるといっても、良くないのであれば従うことはあるまい。今より以後は、議って殉死を止めるように」と。
 その数年後、後皇后の日葉酢媛が天皇より先に亡くなった。葬るにはまだ日があったので、天皇が群卿に詔して言うには、「殉死が不可であることは既に知った。今度の殯はいかにしたものか」と。そこで野見宿禰が(故郷の)出雲から多くの土師を招き、自ら土師等を使って埴土で人馬や種々の物を形作らせ、天皇に献上して言うには、「今より以後は、この土物を以て生きた人に替え、陵墓に立て並べて後世への法則とせん」と。天皇はこれを大いに喜び、宿禰に詔して「汝の便宜は真に珍の心に適う」と言い、初めて日葉酢媛の墓に立てた。よってこの土物を埴輪と言い、または立物と名付けた。令を下して言うには、「今より以後は、陵墓には必ずこの埴輪を立て、人を傷るなかれ」と。野見宿禰が土部連等の始祖となったのはこれが故であるという。

垂仁紀略年表

 記紀共に最後は田道間守と橘にまつわる話を添えて垂仁朝の記述を終えている。治世の晩年、天皇は田道間守を常世の国へ遣わして、「非時の香実」を求めさせた。田道間守は常世の国へ渡り、長い年月を経て非時の香実を持ち帰ったものの、既に垂仁帝は崩じていたため、御陵の前で哭き叫んで死んだという。この非時の香実というのは橘のことだと言われており、史書にもそう明記されている。しかし橘は唯一日本原産の柑橘類なので、果して常世の国というのが何処だったのかは不明である。また天皇が田道間守に求めさせたのは不老長寿の霊果だったとも言われることから、これは垂仁帝の治世に行われた橘の殖産と、海外に不老長寿を求めた王の話が混同されたものと見ることもできよう。
 ここで崇神帝の時と同じく、垂仁紀に従って天皇の生涯を略年表にしてみると、大体次のようになる。するとやはりここでも垂仁三十九年から八十七年までの間に、奇妙な五十年の空白があるのを見て取れる。また狭穂彦が妹に天皇暗殺を唆したのは垂仁四年の九月としながら、皇后の天皇暗殺未遂が翌五年の十月となっていたり、垂仁二年に誉津別命が生まれたとしながら、同二十三年に「誉津別命は三十歳になり、長い顎鬚が生えても哭き喚くばかりで、全く物を言わないのはなぜか」とあるなど、既に所々で時系列の設定が破綻している。因みに狭穂姫の姪に当たる丹波の姉妹を召し出したのが、彼女の死から十年後となっているのは、少女の成長を待って迎え入れたという正史の解釈だろうか。

垂仁元年
 春一月、即位。
 冬十月、崇神帝を山辺道上陵に葬る。
垂仁二年
 春二月、狭穂姫を立てて皇后とする。誉津別命が生まれる。
 冬十月、纏向に都を造る。玉城宮という。
 この年、任那人の蘇那曷叱智が帰国を申し出る。
垂仁三年
 春三月、新羅の王子、天日槍渡来。
垂仁四年
 秋九月、皇后の兄狭穂彦が謀反を企て、皇后に匕首を授ける。
垂仁五年
 冬十月、皇后による天皇暗殺未遂。狭穂彦を討つ。
垂仁七年
 秋七月、出雲から野見宿禰を召し角力をさせる。
垂仁十五年
 春二月、丹波の五人の女を召して後宮に入れる。
 秋九月、長女の日葉酢媛を立てて皇后とし、三人の妹を妃とする。
垂仁二十三年
 秋九月、詔して誉津別命が生来物を言わないのは何故かと議す。
 冬十月、皇子が鵠を見て初めて言葉を発す。
 冬十一月、湯河板挙が鵠を奉る。
 湯河板挙に賞して鳥取連の姓を授け、鳥取部・鳥養部・誉津部を定める。
垂仁二十五
 春二月、五大夫に詔して祭祀を怠らぬことを命ず。
 三月、天照大神を豊耜入姫から離して倭姫に託す。
 倭姫、天照大神の祠を伊勢国に立て、斎宮五十鈴川の畔に立てる。
垂仁二十六年
 秋八月、物部十千に命じて出雲の神宝を調べさせる。
垂仁二十七年
 秋八月、神官に命じて神々に武器を供えることの可否を占わせる。
 この年、来目邑に屯倉を立てる。
垂仁二十八年
 冬十月、同母弟の倭彦命が亡くなる。
 十一月、倭彦命を葬る。天皇、殉死に心を痛め、群卿に詔して廃止を議る。
垂仁三十年
 春一月、五十瓊敷命と大足彦尊に各々欲しいものを言えと詔す。
 二皇子の言葉のままに、五十瓊敷命には弓矢を賜り、大足彦尊を後嗣とする。
垂仁三十二年
 秋七月、皇后日葉酢姫が崩ず。群卿に詔して殯を問う。
 野見宿祢の奏上を容れ、埴輪を以て生きた人馬に替える。
垂仁三十四年
 春三月、山城に行幸。山城の二女を召す。
垂仁三十五年
 秋九月、五十瓊敷命を河内に遣わして高石池・茅渟池を造らせる。
 冬十月、倭の狭城池と迹見池を造る。
 この年、諸国に令して大いに池溝を開かせる。その数八百余り。
 百姓は富み豊かになり、天下太平。
垂仁三十七年
 春一月、大足彦尊を立てて皇太子とする。
垂仁三十九年
 冬十月、五十瓊敷命、剣一千口を造らせ、石上神宮に奉納。
 この後、五十瓊敷命に石上神宮の神宝を掌らせる。
垂仁八十七年
 五十瓊敷命、高齢により妹の大中姫に神宝を掌ることを託す。
垂仁八十八年
 秋七月、群卿に詔して天日槍の神宝を求む。曽孫の清彦に献上させる。
垂仁九十年
 春二月、田道間守を常世国に遣わして非時の香果を求める。
垂仁九十九年
 秋七月、纏向宮で崩御。時に百四十歳。
 冬十二月、菅原の伏見陵に葬る。
 翌年春三月、田道間守が常世国から帰還。
 復命が叶わぬことを嘆き、主君の陵に向かい哭死。

 垂仁三十年の皇太子選定について触れておくと、垂仁帝は皇子の五十瓊敷命と大足彦尊に詔して、「汝等、各々望む物を言え」と言った。両御子は共に後皇后の日葉酢媛命の子なので同母兄弟である。すると兄の五十瓊敷命は「弓矢が欲しい」と言い、弟の大足彦尊は「皇位が欲しい」と言ったので、天皇は「各々の心のままにすべし」と言って、五十瓊敷命には弓矢を賜い、大足彦尊には「必ず朕の位を継げ」と言ったという。垂仁帝の時と同じく同腹の兄を差し置いて弟の方が後嗣に選ばれた訳だが、少なくとも夢見や本人の希望などという史書内の方便を別にすれば、前記の如くそれを可能とした当時の選定基準についてはよく分からない。
 またここで面白いのは、どちらも弟が選ばれた理由について、今上とのやり取りという形で、わざわざ後世に伝えていることだ。もし跡を継いだのが兄であれば、敢てその理由を公言する必要などないだろうから、やはり当時にあっても年少者の相続というのは神経を使うものだったのかも知れない。尤もどちらの場合であれ、実際には天皇と太子との間で予め事が仕組まれていたように見えなくもないのだが。そして垂仁帝による後嗣選定について言えば、ここで太子に立てられた大足彦尊こそが、史上初の日本統一を成し遂げた景行天皇だから、この人選が正しかったのは間違いない。