史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

三韓征伐(神功紀と好太王碑)

 以上が好太王碑に刻まれた四世紀後半から五世紀初頭の倭と朝鮮の風景である。そして我々の知る日本史の中には、これ等の出来事に呼応するだけの明確な痕跡がない訳だが、確かに碑文自体は高句麗側の視点で語られているにせよ、その内容が全くの創作であろう筈もない。もし十九世紀に入って偶然この石碑が発見されなければ、我々はかつて日本と高句麗が戦ったという事実さえ永久に知らなかったことを考えると、まさにこれは天恵と呼べるほどの大発見だったと言える。従ってこの発見を我々自身の歴史とするためには、国内に伝わる日本史と好太王碑の記述を一体化させる作業が必要になる。そこでまず碑文の方を簡単な年表にしてみると次のようになる。
 
永楽元年(三九一年)好太王即位。この頃から倭が海を渡って来て、高句麗の属邦だった百済新羅を臣従させる。
永楽六年(三九六年)好太王、自ら水軍を率いて百済を討つ。漢江以北を平定して王都に迫り、百済王に城下の盟をさせる。
永楽九年(三九九年)百済が先年の誓に反して倭と通じたため好太王は平穰まで巡下。新羅が使者を遣わして救援を請う。
永楽十年(四〇〇年)高句麗軍、新羅の王城を包囲。場内の倭軍が撤退したので、これを追って任那加羅へ至る。その隙に安羅軍が新羅の王城を陥落させる。
永楽十四年(四〇四年)、倭が帯方郡へ侵入。好太王自ら迎撃して倭を破る。

 では一体これ等の出来事は、日本史のどの部分に当て嵌まるのだろうか。まず三九一年に倭が百済新羅を臣従させたという一件について言えば、その内容から見てもこれが神功皇后三韓征伐であることは論を待たない。従ってその後の一連の時事もまた神功皇后の摂政期に起きた可能性が高い。因みに神功皇后の生きた時代に関しては、『日本書紀』に記された干支を二運(百二十年)繰り下げて、四世紀の中頃に比定する見解がある。つまり同書の干支は意図的に二運繰り上げられているとする説で、朝鮮側の史料に記された干支との比較等から、既に江戸時代には指摘されてきたものだが、ここでは採用しない。何故なら割り振られた干支そのものが当てにならないからである。
 そして神功紀の年表には、不自然な四十年の空白があることは前述した。その四十年間の出来事として、応神天皇が大臣と共に敦賀気比神宮へ詣でた話と、『魏志』から引用した倭の女王の話を挿入している訳だが、そもそも邪馬台国神功皇后は百年以上も時代が異なるので、これは誰が見ても『魏志』に呼応させるための造作であることは明白である。また神功紀は摂政六十九年まで続くものの、五十五年以降の記述は殆ど百済史書からの引用であり、その年月も含めて気長足姫との関係については信憑性に欠ける。そこで仮にその四十年を無かったことにして、空白後の摂政四十六年を摂政六年、同じく五十二年を十二年と読み、起点となる三韓征伐を三九一年に据えて簡単な年表にしてみると次のようになる。

仲哀九年(三九一年)新羅征伐。百済朝貢を誓う。内宮家を定める。
摂政元年(三九二年)、二王の乱。忍熊王を近江に破る。
摂政二年(三九三年)、先帝を長野陵に葬る。
摂政三年(三九四年)、誉田別皇子立太子
摂政五年(三九六年)新羅王が三人の使者を大和へ遣わす。この三人の手引きにより人質となっていた新羅の王子が大和から脱出。葛城襲津彦、三人を焼き殺す。
摂政六年(三九七年)、斯摩宿禰を卓淳国へ遣わす。宿禰の来訪に先立ち、百済人の久氐等が卓淳を訪れて国王に大和との交流を説く。宿禰百済へ使者を遣わして王を慰労。百済王、使者に託して珍物を献じる。
摂政七年(三九八年)百済王、久氐等三人の使者に朝貢させる。時に新羅の調使も共に詣で来る。新羅百済の献物を奪ったことが発覚。皇后、新羅の不正を責める。
摂政九年(四〇〇年)新羅再征。荒田別と鹿我別を将軍とし、百済と共に新羅を撃つ。比自体・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定。更に軍を西へ移し、兵を率いて参戦した百済王と合流。千熊長彦、王と共に百済へ赴き誓約を交わす。
摂政十年(四〇一年)、荒田別等が帰国。千熊長彦と久氐等が百済から戻る。
摂政十一年(四〇二年)百済王、久氐を遣わして朝貢。千熊長彦を久氐等に副えて百済へ遣わす。
摂政十二年(四〇三年)、久氐等、千熊長彦に従い参り来て、七枝刀や七子鏡等種々の重宝を献じる。以後毎年朝貢する。

 こうして比較してみると神功紀と好太王碑は、かなり無理のない範囲で合致していることが分かる。特に仲哀九年を永楽元年(西暦三九一年)とし、翌年を神功摂政元年、摂政四十六年を同六年とすると、摂政九年の新羅再征と、永楽十年の新羅救援の年が完全に一致するのである。そしてこの時の双方の戦記を見てみると、神功紀では百済の将軍と共に新羅を破った倭軍が旧弁韓の七国を平定した後に西部へ移動して百済王と合流したとするのに対して、好太王碑では高句麗軍が新羅を解放して更に南部へ進軍したところ安羅軍に新羅城を奪回されたとしており、見方によってはそれぞれの欠けている所を上手く補い合っているとも言える。
 個々の年月に多少の誤差は見出せるかも知れないが、これはどんな史書でもよくあることで、そもそも書紀や碑文の記述が必ずしも正確とは限らない。そして百済との合同作戦だった二度目の新羅征伐の後、将軍の荒田別等を帰国させているところを見ると、その数年後に行われたとされる高句麗遠征は、やはり大和朝廷の国策として実行された可能性が高い。加えて永楽十四年(西暦四〇四年)の戦争が、摂政十三年(書紀では同五十三年)の出来事だったとすると、明らかに神功紀はその前年で筆を止めているのが見て取れる。従って日本側の史書では触れられていないが、当然この遠征の失敗は時の朝廷中枢部にも多大な影響を与えた筈であり、少なくとも神功皇后から応神天皇への政権移行に際して、その要因の一つとなったことは間違いないだろう。