史書から読み解く日本史

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景行天皇と日本武尊(まとめ)

景行天皇の東国巡幸

 景行紀によると、日本武尊の死から十年余り経った頃、景行帝は小碓尊の平定した国を観てみたいと言って、東国巡幸を行った。その年の八月に御輿は伊勢に幸し、更に東海を経て十月には上総に到り、海路から安房の水門へ渡った。この時に覚賀鳥の声が聞こえたので、その鳥の形を見てみたいと思い、海上まで追って行くと、そこで大きな白蛤を得た。膳臣の遠祖で、名を磐鹿六鴈という者が、蒲を襷に掛け、白蛤を膾にして奉ったところ、景行帝は六鴈臣の功を賞めて、膳大伴部を賜ったという。安房国朝夷郡(現南房総市千倉町)に鎮座する高家神社は、この磐鹿六鴈命を祭神とする式内社で、料理の祖神を祀る神社として知られる。
 日本武尊の東国平定と景行帝の東国巡幸に関しては、九州の『風土記』と同様に『常陸風土記』でも複数の逸話を伝えているが、キリがないのでここでは割愛する。また同書では崇神帝と常陸にまつわる伝承もいくつか掲載されており、崇神帝の治世に常陸が大和の支配下にあったとは思えないので、単に崇神帝と景行帝の業績が混同されただけの話かも知れないが、大和が使者や武将を派遣した可能性を考慮すれば、古代の東西交流の一端を示す事例として捉えることもできるだろう。そして東国各地を巡幸した景行帝は、十二月に伊勢へ帰還した。

景行紀略年表

 最後に『日本書紀』に従う形で景行天皇の略年表を作ってみると、大体次のようになる。尤も既述した通り、天皇の筑紫平定が果して親征であったかどうかは疑わしく、では仮に筑紫巡行や熊襲征伐が即位前の業績だったとすると、真の景行元年とは一体いつなのか。また面白いのは、崇神天皇から反省天皇までの歴代天皇が、いずれも春一月に即位しているのに対して、景行天皇だけは秋七月の即位となっている。或いはこんな所にも何かの暗示が隠されているのかも知れないが、ここでは立ち入らない。

景行元年
 秋七月、即位。
景行二年 
 春三月、播磨稲日大郎姫を皇后に立てる。
景行三年 
 春二月、紀伊国行幸して諸々の神祇の祭祀をしようと占うが吉と出ないため中止。
景行四年 
 春二月、美濃行幸。八坂入媛を召す。
 冬十月、美濃から戻り、纏向に都を造る。これを日代宮という。
景行十二年
 秋七月、熊襲が叛いて朝貢せず。
 秋八月、天皇自ら筑紫に向かう。
 秋九月、周防の娑麽に到る。豊前に渡り四所の土蜘蛛を討つ。
 冬十月、碩田に到る。各地の土蜘蛛を討つ。
 十一月、日向国に到り、行宮を建てる。これを高屋宮という。
 十二月、熊襲梟帥を討つ。
景行十三年
 夏五月、悉く襲の国を平らげる。
景行十七年
 春三月、小湯県に遊ぶ。有名な国しのび歌を詠む。
 春三月、都へ向かおうと筑紫を巡幸する。初めに夷守に到る。
 夏四月、熊県に到る。弟熊を討つ。
 五月、葦北から発船して火国に到る。
 六月、高来県から玉杵名邑に渡る。その地の土蜘蛛を殺す。阿蘇に到る。
 秋七月、筑後国御木に到り、高田行宮に居す。
 八月、的邑に到って進食す。
 ※『肥前風土記』では肥前各地を巡幸したと伝える。
景行十九年
 秋九月、天皇、日向から都へ還る。
景行二十年
 春二月、五百野皇女を遣わして天照大神を祭らせる。
景行二十五年
 秋七月、武内宿禰を遣わして、北陸及び東方諸国の地形や百姓の消息を観察させる。
景行二十七年
 春二月、宿禰が東国から還り蝦夷について上奏。
 秋八月、熊襲がまた叛いて辺境を侵す。
 冬十月、日本武尊を遣わして熊襲を討たせる。年は十六歳。
 十二月、熊襲国に到る。宴に交じって川上梟帥を討つ。
景行二十八年
 春二月、熊襲を平らげたことを上奏。

 以上が景行紀の前半部分だが、景行十二年と同二十七年の熊襲討伐の記録が、ほぼ同じ内容であることに誰もが気付く。そして『古事記』の方には、この日本武尊熊襲討伐以前の記録がない訳である。また『日本書紀』では景行十八年の八月から同十九年九月までの約一年を空白としているが、この間の行動については『肥前風土記』の記録を充てるべきであろうか。と言うより日向の高屋宮に数年滞在したという設定を無視して、熊襲梟帥を討伐した翌年の三月には日向を発って火国の各地を回り、その年のうちに都へ帰還したと推測すれば、筑紫巡行の全ての行程がほぼ一年内に収まるのだが。
 北陸や東方へ遣わされたという武内宿禰について言えば、そもそも彼は日本武尊の異母弟稚足彦尊(成務天皇)と同世代なので、景行二十五年のこの抜擢は年代的に有り得ない。むしろ武内宿禰の東国視察が事実だったとすると、彼にそれを命じた天皇は誰であり、なぜそれが景行紀に挿れられたのか。いずれにせよ宿禰の東国視察とされているのは、日本武尊による東国平定の伏線に過ぎないので、軍事行動の前に敵地を偵察させた事実はあるにせよ、敢てそこに絡める形で宿禰の名を持ち出すのは余りにも不自然であろう。続いて後半部分を見てみると、大体次のようになる。

景行四十年
 夏六月、東の蝦夷が叛いて辺境が騒がしくなる。
 秋七月、群卿に詔して東国鎮定を問う。日本武尊に斧鉞を授く。
 冬十月、日本武尊出発。伊勢に立寄り、倭媛から草薙剣を授かる。
 ※この後の日本武尊の東国平定には年月の記載がない。
景行五十一年
 春一月、群卿を招いて大宴会を催す。稚足彦尊は宴に参加せず非常に備える。
 秋八月、稚足彦尊を立てて皇太子とする。
景行五十二年
 夏五月、皇后の播磨大郎姫が亡くなる。
 秋七月、八坂入媛を立てて皇后とする。
景行五十三年
 秋八月、小碓尊の平定した国々を巡幸。伊勢から東海道に入る。
 冬十月、上総から安房に到る。
 十二月、東国から還り伊勢に居す。これを綺宮という。
景行五十四年
 秋九月、伊勢から倭に還り、纏向宮に居す。
景行五十五年
 春二月、豊城命の孫、彦狭嶋王を東山道十五国の都督に任ず。
 彦狭嶋王、病に伏し、任地へ赴くことなく薨ず。
景行五十六年
 秋八月、彦狭嶋王の子の御諸別王に東国を領するよう命ず。
 御諸別王、命を承って東国へ下り、早くから善政を敷く。
 蝦夷が騒いだので兵を挙げて討ち、帰順した者は赦免し、服さぬ者は誅した。
 これによって東国は久しく無事となり、その子孫は今も東国に有る。
景行五十七年
 秋九月、坂手池を造る。
 冬十月、諸国に令して田部屯倉を興す。
景行五十八年
 春二月、近江に幸して志賀に居すこと三年。これを高穴穂宮という。
景行六十年
 冬十一月、高穴穂宮に崩御。時に百六歳。

 こうして見てみると、景行五十一年から六十年までの十年間は、それほど無理のない内容となっていることが分かる。従ってこの晩年の十年間に限って言えば、ほぼこれを史実と捉えても差支えないかも知れない。そして景行帝は晩年になって、かつて小碓尊が平らげた東国の地を親ら訪れ、豊城命(崇神帝の皇子)の曾孫をその東国に封ずると、まるで全てをやり終えたかのように都を近江の志賀に遷し、同地で崩御までの三年間を過ごしたという。景行帝がなぜ大和を遠く離れた近江に宮殿を造営したのかは不明だが、後に織田信長もまた安土に終の居城を構えたように、眼下に琵琶湖を臨む近江の地には、天下人を引き付ける魅力があるのだろうか。
 余談ながら触れておくと、「英雄色を好む」という諺にもある通り、歴史上の偉大な覇王の多くがそうであったように、史上初の日本統一を成し遂げた景行帝もまた、その例に漏れない草創の大君だった。一般に日本史上で子沢山の人物と言えば、男女合わせて五十三人もの子宝に恵まれたという江戸幕府第十一代将軍の徳川家斉や、六十余州全てに我が子を振り分けようとしたという源為義浄土真宗本願寺中興の祖である蓮如等を思い浮かべるだろうが、景行帝が数多の后妃との間に儲けた子女の数は更にその上を行き、記紀ではその総数を実に八十人としている。恐らくこれは有史以来の日本記録ではあるまいか。同じく好色の天下人として知られる豊臣秀吉にしても、側室の数だけならば負けてはいなかったろうが、残念ながら彼には子種が無かった。そして日本武尊・稚足彦尊・五百城入彦皇子を除く他の皇子は、皆国郡に封じてその任国に赴かせたという。