史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

景行天皇(筑紫巡幸:其四)

筑紫巡幸の疑問点

以上が景行帝による筑紫巡幸の要略ですが、こうして読み終えてみると、恐らく誰しも疑問に思うことがいくつかあります。
まず一つは、天孫瓊瓊杵尊が日向の高千穂に天降り、その曾孫の神武帝が日向から東征して大和に入ったという神話を国史としながら、皇祖降臨の地である高千穂を景行帝が訪れていないことです。
これは何とも不思議な話であって、もし高千穂が天孫降臨の地であり、皇室が天孫嫡流であるならば、筑紫巡幸の目的の中に高千穂参拝が入っていないのは明らかにおかしいでしょう。
しかし『日本書紀』や『風土記』は無論のこと、他の史料にも景行帝と高千穂の接点を伝える記述は見当たらず、高千穂周辺の神社や史跡にも同帝との関りを示すような伝承は特に見出せないので、やはり当時の大和は高千穂という土地を余り意識していなかったようです。
そしてそれは日本武尊にしても同じことが言えました。

もう一つ不可解なのは、いつの時代も九州で最も人口が多く、最も先進地域だと思われるのは筑前ですが、その筑前に景行帝が足を踏み入れていないことです。
日本書紀』によると筑紫巡幸を終えた景行帝は、日向から大和へ帰還したといいます。
つまり松浦から玄界灘を抜けて筑前に回るのではなく、再び薩摩半島大隅半島を迂回して日向へ戻った訳ですが、もしこれが本当に天皇の巡幸であったならば、最重要地である筑前を行程から外すことなど有り得ませんし、常識的に考えればそのまま時計回りに九州を一周するのが自然でしょう。
しかし景行帝は往路でも筑前を通ることなく、周防から海路豊前に渡っているので、最早意図的に筑前を外したとしか思えません。
或いは今回の親征の戦略上、初めから筑前に赴く必要がなかったということでしょうか。

もともとこの筑紫巡幸は、『日本書紀』内でさえ辻褄の合わない箇所が多々あって、例えば景行紀によると、大和から周防に入った景行帝は、対岸つまり九州側に賊がいるのではないかと言って、まず配下の将を渡海させているのですが、これを素直に読めば、この時点で未だ九州北部は平定されていなかった訳です。
であれば熊襲征伐の口実となっている「熊襲が背いて朝貢しなかった」云々は、初めから論外ということになります。
続いて最初に投降してきた女首長が言うには、菟狭(宇佐)の川上に悪しき賊が居るといいます。
その宇佐は神武帝以来の宇佐氏の地盤という設定なのですから、天子の巡幸ともなれば東征の時と同じように宇佐氏が皇軍を出迎えるべきですし、川上の土蜘蛛如きは宇佐氏に討伐を命じれば済む話でしょう。

しかし宇佐氏に限らず、この巡幸を通して景行紀や風土記に登場するのは、無数の土蜘蛛や在地の神々ばかりで、九州各地の小国連は殆ど登場せず、むしろ卑弥呼の治世に比べても時代が逆行している感さえあります。
ただこれは崇神帝前夜が戦乱の世だったと推測すれば無理もない話で、例えば秀吉が平定する直前の九州を見ても、その半世紀ほど前まで同地を支配していた大内・大友・少弐といった有力大名は、長引く戦乱や下剋上によって見る影もなく衰退しており、数国を領する守護大名でさえその有様ですから、その下の国人領主などは、鎌倉以来の名門でさえ情容赦なく消滅していました。
従って島津氏を駆逐した後の九州というのは、殆ど領主不在の様相を呈しており、それこそは秀吉が最も望んだ状態に他なりませんでした。

実のところ秀吉の九州遠征には主に二つの目的があって、まず一つは天下人秀吉の名で諸大名を動員してみせること、つまりその実力を内外に誇示することであり、もう一つは島津氏から奪還した土地を接収することでした。
信長の地盤を継ぐ形で天下に君臨した秀吉でしたが、前田利家のような旧織田家の家臣は無論のこと、前述の通り徳川・毛利・上杉といった大大名でさえ、ほぼ現状維持のまま所領を安堵していたため、彼自身の政略に則った大名配置を実現するためには、長曾我部討伐後の四国や島津征伐後の九州のような、主権上の空地がどうしても必要だったからです。
主君の裁量で自由に扱える土地がなければ功臣への加増や大名の国替えなどできません。

些か蛇足ながら付け加えておくと、邪馬台国から大和朝廷への移行期を考察しようとする時に、敢て『魏志倭人伝に出てくる伊都国や奴国を絡めようとする声も散見されますが、そうした考えは捨てた方が無難でしょう。
伊都を例に挙げてみると、『魏志』に記された伊都国が、筑前国怡土郡であることは、ほぼ間違いありません。
しかし他の史料は無論のこと、『筑前風土記怡土郡逸文でさえ、かつて怡土が魏使の常駐していた国などとは伝えておらず、そこに語られているのは仲哀帝と怡土県主の祖である五十跡手(日鉾の後裔を称する)に関する話だけで、しかも怡土の語源は仲哀帝が五十跡手の忠勤を誉めたことに由来するとしています。
言わば地名としては連続していても、『魏志』の伊都国と筑前国怡土郡は全くの別物だと考えるべきで、それは奴国と同那珂郡(儺県)、投馬と出雲についても同じことが言えます。

そもそも巡幸だったのか 

そして何よりこの筑紫巡幸において最も根本的な疑問となるのは、そもそもこの熊襲征伐は本当に親征だったのか、つまり史書にあるような天皇の巡幸だったのかということです。
無論それはこの巡幸が創作だという意味ではなく、『日本書紀』や複数の『風土記』で語られているように、景行天皇こと大足彦尊が吉備水軍以下を率いて九州全土を鎮定したこと自体は、(多少尾鰭が付いて後世に伝えられた部分はあるにせよ)ほぼ史実と見てよいでしょう。
元より『日本書紀』景行紀では、当然それを即位後の業績としており、一応ここまでは正史の設定に沿う形で話を進めてきた訳ですが、その一方で同書や各風土記の記述を読む限り、とてもそうとは思えない内容となっているのもまた事実なのでした。

例えば若しこれが天子の巡幸ならば、必ず随行している筈の大伴氏や物部氏といった朝廷の重臣、或いは崇神・垂仁両朝以来の有力皇族の名が、一貫して見当たらないのです。
これは後に景行帝の孫の仲哀帝が再び熊襲征伐を行った時、帷幄に参じていた皇族や重臣の顔触れを見れば分かることで、皇后の気長足姫や大臣の武内宿禰を始めとして、錚々たる面子が九州まで従軍しています。
しかし景行帝の巡幸を見ると、そこに侍っているのは現地の小豪族やその祖先ばかりで、確かに周防から豊前に渡る際の先遣隊として、物部臣の祖の夏花という人物は登場しますが、これも中央の物部連とは無関係です。

同じく大足彦尊による筑紫遠征が、素直に天子の巡幸と受け取れない理由として、その行程が挙げられます。
日本書紀』によると、この筑紫巡行の発端は、景行十二年の七月に熊襲が背いたことであり、天皇は早くも翌八月には筑紫に向かい、九月には娑麼に着きました。
次いで豊前に渡ると、道中の土蜘蛛を討伐しながら南下し、十月には碩田に着き、十一月には日向の行宮に入ったとあります。
熊襲が背いた翌月に出陣という点を除けば、ここまでは特に問題ないかも知れません。
しかし翌十三年五月には襲の国を平定しながら、その後も延べ六年に渡って日向に滞在した景行帝は、十八年の三月になってようやく巡幸を再開し、火国や筑紫国を経て、翌十九年の九月に再び日向から大和へ還ったといいます。
都を出発してから凱旋するまで実に満七年です。
無論ここで言う景行何年だの、高屋宮に居すこと六年だのというのは、それをそのまま鵜呑みにできるものではないのですが、この巡行の大まかな流れを見る上では有効でしょう。

これを豊臣秀吉の九州平定と比較してみると、天正十三年(西暦一五八五年)七月に関白となった秀吉は、同年十月に九州の諸大名へ惣無事令を発して停戦を命じましたが、島津氏がこれに従わなかったため、翌天正十四年六月に島津征伐を表明し、毛利氏を始めとする諸大名に島津攻撃を命じました。
年が明けて天正十五年、秀吉は自らの出馬の準備を始めると、まず本隊の先陣として宇喜田秀家を出発させ、秀吉自身は二万五千の大軍を従えて三月一日に大阪城を出陣、三月二十八日に小倉へ入城しました。
豊臣軍は戦力を東西の二手に分け、秀吉本隊が筑後から肥後へ、実弟秀長の率いる別動隊が豊後から日向へ、それぞれ陸路南下する形で九州を蹂躙し、早くも五月八日には島津義久を降伏させます。
現地での仕置きを済ませた秀吉は筑前筥崎へ戻り、六月七日に九州国分を決定しました。
九州上陸から国分まで僅か二ヶ月余りです。

こうして見てみると、まず西国の諸大名に開戦を命じ、自らは大軍を率いて最後に参戦、短期間で一気に仕上げを済ませるなど、秀吉の遠征は明らかに天下人の陣容で、これでは謀反など起こしようがありません。
そしてこれは関東平定でも同様であって、天正十七年十一月に北条征伐を決定した秀吉は、翌十八年二月一日に先鋒を出発させ、同月中に徳川家康豊臣秀次織田信孝前田利家毛利水軍等も出陣すると、自らは三月一日に聚楽第から東国へ向かい、三月二十七日に三枚橋城へ入りました。
その後は難攻不落と呼ばれた小田原城に多少手古摺ったものの、約三ヶ月後の七月上旬に北条氏を降服させた秀吉は、翌八月に奥州仕置を済ませると、九月一日には京へ凱旋しました。
秀吉が長期戦になることを焦ったという小田原攻略でさえ、下向から帰京まで丁度半年です。

この見事なまでの秀吉の陣立てに対して、景行帝の筑紫巡幸はとても親征とは思えない内容で、例えば天子の率いる本隊が周防に着いたというのに、まだ対岸の豊前に素性の怪しい邑があるなどというのは、基本的な戦略そのものを疑われても仕方がありません。
もしこの遠征の主たる目的が熊襲征伐ならば、元帥である天皇は対熊襲戦に専念すべきで、道中に点在する要害堅固な敵の城砦まではともかくとして、少なくとも九州北部くらいは先遣部隊が掃討しておき、その上で本隊の到着を待つのが常道でしょう。
しかし景行帝は九州上陸前から一貫して陣頭指揮を執っており、もしこうした史書の記述が事実ならば、当時の熊襲は南方の一勢力などではなく、島津氏が九州平定目前だったように、熊襲もまた一時的にかなり北方まで勢力圏を広げていた可能性は否定できません。
そのため皇軍熊襲方の小勢力を逐一討伐しながら進軍する必要があった訳です。

また景行帝の筑紫巡幸は、九州での滞在期間が長いのも特徴で、『日本書紀』によると九州下向から帰京までに要した期間は実に七年余、日向の高屋宮には四年以上(足掛け六年)滞在しています。
それに対して秀吉が現地に滞在していたのは、九州平定の時で約三ヶ月、関東平定と奥州仕置の時でさえ四ヵ月半であり、凡そ比較にならぬほどの短期間です。
それもその筈で、秀吉は諸大名を現地に参集させていたのみならず、本隊だけでも万単位の軍勢を率いていたので、その大軍を長期間逗留させるのは現実的に不可能であり、要は初めから長期戦など想定していない軍役なのでした。

そして本来それは景行帝の場合も同じ筈で、豊臣家の主力は陸軍、大和朝廷は水軍という相違はあるにせよ、群卿を従えた天子の軍勢が行宮に数年も滞在し、その前後二年余を巡行に費やすなどというのは、凡そ現実離れした話だと言えるでしょう。
それだけ長期に渡って都を離れれば、(腹心を残留させているとは言え)当然その間は決裁が滞る訳ですし、天下未だ定まらぬ状況下では、要らぬ謀反等を誘発しかねません。
現に後年神功皇后新羅征伐によって、天皇と大臣以下の不在が続いた時には、二人の王が反乱を起こしています。
因みに晩年の景行帝が行った東国巡幸を見てみると、八月に都を出発して十月には上総に入り、海路安房に渡って覚賀鳥を探し、十二月には伊勢に帰ったといいます。

筑紫巡幸とは何だったのか

では景行帝の筑紫巡幸とは一体何だったのでしょうか。
前述した通り九州各地で同帝にまつわる逸話が伝承されていることや、それらが『日本書紀』や『風土記』といった一級の史料に明記されていることから、景行天皇こと大足彦尊が九州全土を巡行し、行く先々で賊を討伐したり各種の仕置きをしたこと、少なくともその原型となる事業が行われたことは、ほぼ史実と見てよいでしょう。
ただ『日本書紀』に描かれた内容が俄には天子の巡幸と思われないことや、『古事記』の方では一切語られていないこともまた事実であり、この相反する二つの現実を説明できる解答を探らなければなりません。

そしてそこから導き出される結論は、恐らく大足彦尊が筑紫巡行を行ったのは即位する前のことで、言わば天子としての巡幸ではなく、皇族を代表しての遠征だったというものです。
要は天皇代理人として、朝廷から熊襲征伐と筑紫平定を託された一大率のようなもので、後世のよく似た例としては、筑紫国磐井の乱が起きた時、継体帝が大連の物部麁鹿火に全権を許して鎮定に当たらせた例や、室町幕府九州探題に鎮西を一任した例があります。
これならば大足彦尊の筑紫滞在が長期に及んだとしても何ら問題はないでしょうし、『古事記』で触れられていないのも別段不思議な話ではありません。
ただそれが太子として派遣されたものだったのか、それとも単なる一皇族という立場だったのかは分かりませんが、何れにせよこの筑紫平定の功績が朝廷内における大足彦尊の地位を不動のものとしたのは間違いないでしょう。

最後に東西の地名の類似について少し触れておくと、筑前南部から筑後にかけての一部の地域において、大和盆地との間に奇妙な地名の一致が見られることは、既に数多くの事例が指摘されています。
記紀神話では日向の高千穂を皇室の故郷としていることや、筑後国に山門郡の地名もあること等から、筑紫平野こそ皇室発祥の地ではないかと推測する向きも多く見受けられます。
要は筑紫から高千穂を越えて日向へ進出し、やがて大和盆地へ東遷した皇室の祖先が、移住した先で故郷に因んだ地名を付けたのではないかというものです。
確かにこうした事例は後の安土桃山期から江戸初期にかけても広く見られ、有名なところでは明治以降県名にもなっている筑前福岡は、もと福崎と呼ばれていた地を藩主の黒田氏が故郷の備前国福岡荘に因んで改名したものです。

ただ九州と大和の間で地名の類似が確認された場合、得てして九州の方がオリジナルで、大和の方がコピーだという結論を招きやすいように思われます。
しかし仮に大和の故郷が九州だったとしても、無条件に九州が本家だと決め付けるのは拙速で、古墳時代を通して九州の国造の大半が大和から下向した氏族であることを思えば、むしろ九州に土着した大和出身の国造や県主連が、新たな領地に故郷の地名を冠したと考える方が自然でしょう。
何故なら後に大名の間で流行した国替え先での地名変更にしても、その殆どはこのパターンだからです。
ともあれここまで景行帝の筑紫平定を見て来た訳ですが、数年にも渡るこの巡行を成功裏に終らせたことで、古代の統一事業は残すところ東国だけとなりました。