史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

成務天皇

成務天皇の業績

小碓尊に先立たれた景行帝は、第四子の稚足彦尊を立てて皇太子としました。
母は後皇后の八坂入媛命で、崇神帝皇子の八坂入彦命の娘です。
稚足彦尊の立太子については、景行紀に次のような話が載せられています。
ある時、景行帝が群卿を召して宴を催し、それが数日に及びました。
しかし稚足彦尊と武内宿禰は宴に参加しなかったので、天皇が皇子を呼んでその理由を尋ねると、答えて言うには「こうした宴楽の日には、群卿百僚も戯れ遊ぶことに心が傾き、国家を顧みようとしない。もし狂った輩が現れて、警衛の隙を伺うやも知れず、故に門下に侍って非常に備えている」と。
景行帝は稚足彦尊を誉め、特に寵愛したといいます。

景行帝が崩ずると、太子の稚足彦尊が即位しました。成務天皇です。
成務帝在位中の政治的な業績については、記紀共にほぼ同じ話を伝えていて、それは次のようなものです。
まず『日本書紀』によると、成務帝は同日生まれの武内宿禰を特に寵愛し、即位すると彼を大臣としました。
諸国に令して国郡に造長を立て、県邑に稲置を置き、それぞれに盾矛を賜って表とし、山河を隔てて国県を分け、東西南北に従って邑里を定めました。
よって東西を日の縦とし、南北を日の横として、山の南側を影面と言い、北側を背面と言いました。
これを以て百姓は居に安んじ、天下は無事だったといいます。
一方『古事記』によると、成務帝は淡海の高穴穂宮に坐しまして天下を治められました。
建内宿禰を大臣として、大国小国の国造を定め、また国々の堺、大縣小縣の縣主を定めたといいます。

いずれも景行帝と日本武尊の創り上げた統一国家を継承した成務帝が、国県を定めて古代封建体制の礎を築いたとしており、時期的に見てもそれ等は至極妥当なものでしょう。
特に『古事記』序文では、崇神帝の祭祀、仁徳帝の仁政、允恭帝の氏姓制定と並ぶ偉業として、成務帝の治績を称えており、また『国造本紀』では、国造の約半数が成務帝の治世に設けられたとしています。
近江の高穴穂宮については、成務朝の都が置かれたとする『古事記』に対して、『日本書紀』では晩年の景行帝が近江へ御幸した際に営んだ宮であり、天皇は高穴穂宮に三年滞在して同地で崩じたとします。
そしてこの二つが共に事実ならば、成務帝は他の天皇のように一代の都を造営することなく、先帝の終の棲家となった近江の宮をそのまま都として使用したことになります。
言わば守成の名君であり、本来ならば更なる尊崇を集めて然るべき天皇でしょう。

ただ不思議なことに、記紀に記された成務帝の事績はほぼこれだけで、他の帝紀には常に録されている朝廷内での出来事や、個人的な逸話等については全く触れられておらず、実に影の薄い君主となっています。
そのため自国の古代史を快く思わない輩の中には、短絡的に成務帝の実在性を疑問視する向きもあるようですが、そもそも架空の帝王が勅撰史書の序文の中で、崇神・仁徳・允恭の各天皇と並び称される筈もありません。
従って成務帝の記事が甚だ短文となっているのには、当然それなりの理由がある訳で、恐らく考えられるのは、成務帝の治世に起きた筈の事柄が、何故か他の帝紀に反映されてしまっているか、または何らかの理由で成務帝の記録が消されているかのどちらかでしょう。

垂仁天皇成務天皇

そこでそれ等を史書の中から探ってみると、まず本来は成務朝期に起きたと思われる出来事が、他の帝紀に転載されている事例として、前に垂仁帝の項でも触れた朝鮮半島との関係が挙げられます。
既述した通り、日本列島と朝鮮半島における国家間の交流が、ある程度信頼できる史料や史跡によって確認できるのは、ようやく西暦四世紀後半のことであり、ほぼ年代を特定できる記録としては、第十九代高句麗王である好開王(広太土王)の功績を刻んだ碑石があります。
(諸説あるにせよ)その碑文によると、辛卯年(西暦三九一年)に倭が海を渡って百済加羅新羅を破り、これを臣民にしてしまったと書かれています。
そして日韓双方の史伝を照査する限り、この時の倭軍による朝鮮出兵が、神功皇后三韓征伐であることは論を待たないでしょう。

従ってそうした時代背景から見ても、崇神紀や垂仁紀に記された朝鮮関連の伝承は、明らかに史書と史実の年代が合致しないものであることが分かります。
例えば『魏志東夷伝によると三世紀中頃の朝鮮半島は、北に強国の高句麗があり、南は馬韓弁韓辰韓三韓に分かれていました。
やがて馬韓百済辰韓新羅によって統一される訳ですが、崇神帝と垂仁帝の治世である三世紀後半から四世紀前半というのは、馬韓弁韓辰韓の旧三韓から、百済加羅新羅への移行期であり、実のところ崇神・垂仁両帝の在位中に、果して加羅新羅などという国が存在していたかどうかは疑わしいと言えます。
仮にその前身となる小国は誕生していたとしても、未だ数ある分国の一つに過ぎなかったでしょう。
即ち単独で日本に使者を送るような状況ではありません。

従って崇神帝の晩年に加羅の王子が渡来して、続く垂仁帝に仕えたという『日本書紀』の記事は、崇神・垂仁両帝を景行・成務もしくは成務・仲哀両帝に置き換えた方が、時代の情勢という観点からしても自然な解釈と言えます。
言わば未だ日本を統一していない大和朝廷と、旧三韓から新三韓への移行期にある朝鮮の一小国との交流として捉えるより、景行帝の下で史上初の統一が為された新生日本と、旧馬韓を統一した百済、旧辰韓を統一した新羅、そして旧弁韓の盟主である加羅が、新たな時代の国交を開始したと考える方が、その後の史実も絡めた一つの時代の流れとして完成するからです。
ではなぜこれ等が崇神紀と垂仁紀に修められたのかと言うと、その理由として考えられるのは史書編纂の際に、口伝に基づく天皇の年代と朝鮮半島や大陸の史書との間に無理矢理整合性を持たせようとしたことと、意図的に成務朝の事績を隠そうとしたからでしょう。

同じく正史の『日本書紀』では垂仁朝の出来事とされている天日槍*1の物語にしても、一方で垂仁帝の治世に新羅の王子の天日槍が帰化したとしながら、一方でその曾孫に当たる但馬氏の清彦と、玄孫の田道間守が共に垂仁朝に仕えたとするなど、既に垂仁紀一代で設定が破綻していることは既述しました。
ここで時系列に沿ってもう一度天日槍と但馬氏を整理しておくと、かつて朝鮮半島から天日槍と呼ばれる人物が渡来し、そのまま日本に帰化して但馬に移り住み、その子孫は但馬氏の祖となりました。
その天日槍の曾孫に当たる清彦は垂仁帝に仕え、同じく玄孫の田道間守は晩年の同帝に仕えました。
そして垂仁帝の曾孫に当たる仲哀帝の皇后が、清彦の曾孫に当たる気長足姫(神功皇后)ですから、少なくとも垂仁帝と清彦以降の皇室と但馬氏の世代は一致しています。

そして子孫の系図の整合性が示す通り、垂仁帝と清彦が同じ時代を生きていたとすれば、清彦の曾祖父である天日槍は更にその三世代前の人物ですから、恐らく彼が日本へ渡来したのは、『播磨風土記』の記述通り三世紀の中頃と推定されます。
従ってその時点で日槍の出自を新羅の王子とする設定は有り得ないことが分かります。
確かに当時はまだ辰韓十二国の一つに過ぎなかった斯慮国の出身という可能性もあるでしょうし、或いは実際にそうだったのかも知れませんが、少なくとも史書が言っているのはそういう意味ではないでしょう。
何故なら『魏志東夷伝に描かれた西暦二四〇年代をして、日本の正史である『日本書紀』は神功皇后の摂政期とし、同じく朝鮮の正史である『三国史記新羅本紀は第十一代助賁尼師今の治世としているからです。

もともと崇神・垂仁両帝と朝鮮との関係を記しているのは『日本書紀』だけで、『古事記』の方では全くと言ってよいほど触れられておらず、それ以外の垂仁帝の記録は記紀共にほぼ同じなので、むしろ朝鮮や天日槍といった後付け感の強い挿話を取り除いてしまった方が、垂仁紀もまたより自然な形で読み解けると言えます。
そして本来は成務帝の治績である筈の出来事が、他の帝紀に振り分けられたと思われる事案は、垂仁紀以外にもいくつか見受けられますが、当然それ等は成務帝の記録を隠蔽しようとした理由にも繋がることなので、ここでは敢て触れずに追って考察して行くことにします。

*1:あめのひぼこ:朝鮮半島からの渡来神。記は天之日矛に作る