史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

垂仁天皇(狭穂彦の乱)

日本書紀に見る狭穂彦の変

 続いて『日本書紀』本文では、皇后の兄の狭穂彦王が謀反を企てた話を伝える。皇后が休息して家にいるときを伺い、狭穂彦は妹に語って「汝は兄と夫と孰れか愛しき」と問うた。皇后がその意趣を知らずに、「兄ぞ愛しき」と答えると、狭穂彦が誂えて言うには、「色を以て人に仕えるは、色衰えて寵緩む。今天下に佳人は多し。各々進んで寵を求む。豈永に色を恃むことを得ん。これを以て冀わくは、吾皇祚に登れば、必ず汝と天下に臨まん。則ち枕を高くして百年を終えんこと、また快からずや。願わくは我が為に天皇を殺しまつれ」と。そして匕首を取り、皇后に授けて言うには「この匕首を衣の内に佩びて、天皇の寝ているときに頸を刺して殺せ」と。皇后は心が震えわななき為す術を知らなかったが、兄の志を思うと容易く諫めることもできず、匕首を独り隠すこともできず、衣の中に着けた。
 垂仁帝が来目に幸して高宮に居るとき、皇后の膝枕で昼寝をしていた。しかし皇后は事を成し遂げようとしなかった。「兄王の謀反は今この時なり」と思うと涙が流れて天皇の顔に落ちた。帝は驚いて目を覚まし、妙な夢を見たが、これは何の兆しだろうかと告げると、皇后は謀を隠し得ないことを知り、恐れ地に伏して詳らかに兄の反状を上奏して言うには、「妾、兄王の志に違うこと能わず、また天皇の恩に背くことを得ず、申さば兄王を滅ぼさむ、申さずば社稷を傾けむ」と。そして「恐れと悲しみで、仰げば咽び、窮まって血涙し,日に夜に胸に痞えて、訴え申すこともできず。今日陛下は妾の膝を枕に寝ておられる。若し狂った婦がいて、兄の志を成すものならば、今この時に労せずして功を遂げよう。その思いが未だ終らぬうちに、自ずと涙が流り、袖を挙げて涙を拭うも、袖から溢れて御面を濡らしました。今日見賜う夢は必ずこの事でしょう」と。
 垂仁帝は皇后に「これは汝の罪に非ず」と言い、近県の兵を遣わし、上毛野君の遠祖八綱田に命じて、狭穂彦を撃たせた。狭穂彦も兵を挙げてこれを防ぎ、忽ち稲を積んで城を作ると、守りが堅くこれを破れなかった。これを稲城と言う。月が替っても狭穂彦が従わなかったため、皇后は悲しんで「吾、皇后なりと雖も、既に兄王を亡くせば、何の面目ありてか天下に臨まん」と言い、王子の誉津別命を抱いて兄の稲城に入った。帝は更に兵を増して城を囲み、速やかに皇后と王子を出すよう城中に勅したが、二人は出てこない。そこで八綱田は火を放って城を焚いた。 
 すると皇后が王子を抱き城の上を越えて出て来て言うには、「妾が兄の城に逃げ込んだのは、若しや妾と子に免じて兄の罪が赦されることも有ると思ったからです。今赦されないのであれば、妾に罪があることを知りました。どうして縛われることを望みましょうか。自ら死を選ぶのみです。妾は死んでも陛下の恩は忘れません。願わくは妾が掌っていた後宮の事は、好き女共に授け給いますように。丹波の国に五人の婦人が居ります。志の貞潔な者達です。丹波道主王の女です。後宮に召し入れて補充に使い給いませ」と。天皇はこれを聞き入れた。時に火は燃え上がり、城は崩れて、兵卒は尽く逃げ去った。狭穂彦と妹は共に城中で死んだ。天皇は八綱田の功を誉めて倭日向武日向八綱田の名を授けたという。

古事記に見る沙本毘売の変

 以上が皇后の兄の謀反に関する『日本書紀』本文の要略で、『古事記』に伝える話も大まかな流れは同じものだが、細かいところでは正反対とも言えるほどの相違が見られる。『古事記』垂仁記には、『日本書紀』垂仁紀の冒頭にあるような朝鮮半島との関りを示す記事はなく、まず垂仁帝の后妃皇子女を詳細に列挙した後、かなりの文字数を割いて沙本毘古王の謀反が語られる。因みに沙本毘古の系譜については『古事記』の方に詳しく記されていて、それによると沙本毘古と皇后沙本毘売は日子坐王の子で開化帝の孫とされる。つまり垂仁朝の重臣であり、皇后が死に臨んで推挙した娘達の父親でもある丹波道主命とは異母兄弟に当たる。ともあれ『古事記』に描かれた沙本毘古王の謀反の話は次のようなものである。
 事の始まりは書紀とほぼ同じで、同母妹の沙本毘売が垂仁帝の皇后だった時、沙本毘古が「夫と兄と孰れか愛しき」と問うと、沙本毘売は「兄ぞ愛しき」と答えた。そこで沙本毘古は「汝、我を愛しと思はば、吾と汝と天下を治らさむ」と言い、鋭利な小刀を作って妹に授け、「この小刀をもちて天皇の寝たまふを刺し殺せ」と言った。垂仁帝がその謀を知らぬまま皇后の膝枕で寝ている時、皇后はその小刀で帝の御頸を刺そうと三度振り上げたが、哀情に忍びずに刺すことができず、泣いた涙が垂仁帝の御面に溢れ落ちた。天皇が驚いて目を覚まし、「吾、異しき夢見つ、これ何の表にかあらむ」と皇后に問いかけたので、皇后は争えないと思って兄の謀反を白状し、今までの経緯を話して「必ずこの表にあらむ」と答えた。
 垂仁帝は「殆ど欺かれるところだった」と言い、軍を興して沙本毘古を撃たせると、沙本毘古は稲城を作って応戦した。沙本毘売は兄への想いに耐えられず、裏門から逃げ出て兄の稲城に入ってしまった。時に皇后は妊娠しており、天皇は皇后が懐妊していることと、愛で重んじて三年になることへの思いから、軍には敵の廻りを取り囲ませるだけで、急ぎ攻めようとはしなかった。そうして膠着している間に皇后は陣中で出産し、その子を稲城の外に置いて帝に言上するには、「もしこの御子を天皇の御子と思ほしめさば治めたもふべし」と。
 垂仁帝は詔して「その兄を怨みつれども、なほその后を愛しむに得忍びず」と言い、皇后を取り返そうという心があった。そこで兵士の中から特に力が強く俊敏な者を選りすぐり、宣して言うには「御子を取る時、その母王も奪い取れ。髪でも手でも取れるままに掴んで引き出せ」と。しかし皇后が予め帝の情を察して対処していたので、御子を取りに行った力士達は母親を連れ帰ることができなかった。天皇が皇后に「汝の後任は誰にすればよいか」と問うと、皇后は答えて旦波比古多多須美宇斯王の二人の娘を推した。そして遂に官軍が沙本毘古を殺すと、その同母妹もまた従ったという。
 こうして読み比べてみると、正史の『日本書紀』の方は、漢籍を引用した脚色が目立つ構成となっているが、もともと同書編纂の動機そのものが、日本古来の伝承を漢文の国史として成立させることだから、これはある程度仕方のない傾向ではある。一方で口伝の『古事記』はと言うと、夫を捨てて兄の許へ走る妹と、その妻を諦め切れない天皇という、まるで劇作のように人間の情緒を主軸に据えた物語となっており、こうした両書の作風の相違は以後も一貫して変らない。また『古事記』では、垂仁帝が力士に命じて皇后を奪い取ろうとした場面と、その後の皇后との掛け合いが詳細に語られており、それがこの物語の見せ場の一つにもなっているが、ここでは割愛した。
 もともとこの事件には不可解な点が多く、例えばこれが狭穂彦を神輿に担ぐ形で朝廷を乗っ取ろうという、彦坐王を氏長とする外戚一族の簒奪劇だというのであれば、まだ話は分かる。しかし狭穂彦とその妹が世を去った後も、丹波道主命の娘が垂仁帝に嫁いで皇太子大足彦尊を生むなど、彦坐王の子孫は有力な家系として存続しており、少なくとも史書に従う限り皇后の実家はこの反乱に加担していない。となるとこれは単に狭穂彦が妹を巻き込んで主君の暗殺を企てたに過ぎず、彼が何を苦しんで暴挙に至り、その先にどんな絵図を描いていたのかは分からないが、仮に帝を弑したところで天下が狭穂彦に靡く保障はなく、むしろ兄妹共に誅されて他の崇神帝の皇子が国家を継承したことだろう。

物言わぬ皇子

 続いて皇后の忘れ形見となった誉津別命についても記紀共にその逸話を伝える。『日本書紀』によると、あるとき垂仁帝が群卿に詔して言うには、「誉津別王は歳既に三十になり、顎鬚が長く伸びるまで、小児の如く泣いてばかりいて、全く物を言わないのは何故か。有司で謀るように」と。暫くして天皇が大殿の前に立ち、誉津別王がその傍らに侍っていたとき、鵠が大空を渡って行った。すると皇子が空を仰ぎ鵠を観て、「是何者ぞ」と言ったので、天皇は皇子が鵠を見て物を言えたと知って喜び、左右に詔して「誰かあの鳥を捕えて献上せよ」と命じた。やがて鳥取造の祖の天湯河板挙が、遠く鵠の飛んで行った後を追い、出雲まで行き遂に捕獲してこれを奉った。誉津別命はこの鵠を弄び、遂に物が言えるようになったので、垂仁帝は天湯河板挙に敦く賞し、鳥取造の骨を賜った。また鳥取部、鳥養部、誉津部を定めたという。
 一方の『古事記』を見てみると、皇后の兄の謀反と、その皇后の生んだ皇子の話については、正史の『日本書紀』よりも事細かに語られている。大まかな流れは両書共にほぼ同じで、垂仁帝と亡き皇后との間に生まれた本牟都和気命は、長い顎鬚が胸に届くほどになっても物を言わなかった。あるとき天皇が御子を連れて舟遊びをしていると、空高く飛んで行く鵠の声を聞いて、初めて御子が口を動かして何かを言おうとした。そこで天皇は山邊の大鷹を遣わしてその鳥を捕えるよう命じ、大鷹は鵠を追い尋ねて紀伊から播磨へ到り、また追って因幡から丹波、そして但馬へ到り、更に東へ追い巡って、近江から美濃を越え、尾張から信濃を伝い、遂に越まで追い到ってその鳥を捕え、持ち上って献上した。御子はその鳥を見て何かを言おうとしたが、思うようには言葉が出なかった。
 垂仁帝がこれを憂いていると、御子が言葉を話せないのは出雲の大神の祟りだと分かった。そこで御子に大神を拝ませるべく、曙立王と菟上王の二人を副使にして出雲へ遣わしたところ、果して御子が出雲の地で初めて言葉を発したので、随行していた王等はそれを見聞きして大いに喜んだ。一行が大和に帰還して、大神を拝んだことにより、大御子が物を言ったと奏上したので、天皇歓喜して、菟上王を出雲へ返して神の宮を造らせ、これを機に鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めたという。前の沙本毘古の時と同様に、ここでも『古事記』特有の詳細な描写については割愛したが、実はその部分こそが同書の神髄であり、また『日本書紀』にはない史料としての価値でもあるので、やはり記紀両典は初めからそのいずれか一方を欠いても日本史が成立しない作りとなっている。
 因みに垂仁帝と物言わぬ皇子の伝承については、これとよく似た話が『出雲風土記』にも録されている。但しそこで登場するのは垂仁帝ではなく大国主命で、それによると大神大穴持命(大国主命)の御子の阿遅須伎高日子命は、髭が長く伸びるまでになっても昼夜哭くばかりで、言葉を話せなかった。時に大神は御子を船に乗せ、多くの島々を巡って楽しませようとしたが、やはり泣き止むことはなかった。そこで大神は「御子の哭く由を告らせ」と夢に祈願した云々とある。恐らくこれも出雲建の話と同じく、もとになった一つの物語が、或いは出雲の伝承として、或いは大和の伝承として混同された事例だろう。
 些か蛇足となってしまうが、誉津別命が成長しても言葉を発しなかったのは、実はこの御子が垂仁帝の種ではなかったからではないかとする見方もある。もし母親が死を賜った時に物心がついていたならば、幼少期に尋常ではない実母の死に方を間近で見てしまったがために、そのショックで言葉が出なくなった可能性もあるだろう。しかし皇后が死んだ時にこの御子はまだ赤子だった訳だから、そうした後天性の疾患は当て嵌まらない。従ってこの御子が先天性の障害を持って生まれたのは、その危険性が極めて高い不義の産物だったからであり、狭穂彦が無謀とも言える主君暗殺を企てたのも、皇后即ち妹が懐妊したことにより、それが発覚するのを恐れたためだという訳である。

丹波の姉妹

 また記紀が共に伝える垂仁帝治世下の話題の一つに、天皇丹波の姉妹を後宮に迎えた一件がある。そもそもこの姉妹等を天皇に推挙したのは、前述の通り他ならぬ前皇后の狭穂姫で、姉妹等の父の丹波道主王(記は旦波比古多多須美智宇斯王に作る)は、共に彦坐王を父に持つ狭穂姫の異母兄弟である。つまり狭穂姫は古代の王族らしく、吾亡き後も身内から后妃が出るよう心を砕いた訳だが、これが許されたということは、この一件が狭穂彦の単独犯行(実際には未遂だが)として片付けられたことを意味する。むしろ身内に罪が及ぶことを恐れた狭穂姫が、敢て姪の名を出すことで夫の情に訴えたのかも知れないし、或いは連座を避けようとした彦坐王の一族が、丹波道主王の娘を尽く後宮に入れることで難を逃れたのかも知れない。
 『日本書紀』に伝える丹波の姉妹の話は次のようなものである。狭穂姫の死から十年後、垂仁帝は丹波の五人の女を召して後宮に入れた。長女を日葉酢媛と言い、天皇は彼女を立てて皇后とした。同じく次女から四女までの三人を妃としたが、末妹の竹野媛だけは容姿が醜かったので国元へ帰した。竹野媛はこれを恥じ、途中で輿から身を投げて死んだという。『古事記』の伝える話もほぼ同じで、天皇は皇后の言葉に随い、美知能宇斯王の女等四人を召し上げたが、比婆須比賣と弟比賣の二人を留めて、妹二人は醜かったので国元へ送り返した。末妹の円野比賣はこれを恥じ、途中で樹の枝に取り掛って死のうとしたが、遂には深い淵に落ちて死んだという。因みに書記では真砥野媛を三女としており、姉や妹と共に妃として後宮に入ったとするが、他の三姉妹は垂仁帝の子を産んでいるのに対して、彼女にだけ子女の記録がない。