史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

神功皇后(忍熊王の乱)

日本書紀に見る忍熊王の乱

 朝鮮から戻った気長足姫は、筑紫で男児を出産した。応神天皇である。ここからは記紀共に仲哀帝皇子の麛坂王と忍熊王が起こしたという反乱の話を伝える。神功紀本文によると、皇后は十二月に皇子を出産し、翌年の二月に群卿百僚を率いて穴門の豊浦宮に移り、天皇の遺骸を収めて海路より都へ向かった。時に麛坂王と忍熊王は、天皇が崩じ、また皇后が西方を征し、併せて皇子が新たに生まれたと聞き、密かに謀って言うには、「今、皇后には子があり、群臣は皆従っている。必ずや共に謀って幼主を立てるだろう。吾等は兄の身でありながら、どうして弟に従えようか」と。
 そこで偽りに天皇のために陵を作る真似をして、播磨に行き山陵を明石に立て、船を連ねて淡路島に渡し、その島の石を運んで造営した。そして人毎に武器を取らせて皇后を待った。犬上君の祖の倉見別と吉師の祖の五十狭茅宿禰は共に麛坂王に付き、将軍として東国に兵を興した。時に麛坂王と忍熊王は、共に菟餓野に出て、祈狩して言うには、「もし事を成すこと有らば、必ず良き獣を獲む」と。二王が仮庪に居ると、いきなり赤い猪が出てきて仮庪に登り、麛坂王を食い殺した。兵士は皆怖気てしまい、忍熊王は倉見別に語って、「これは大事の怪兆である。ここでは敵を待つべからず」と言い、軍を率いて戦陣を更に後方へ下げ、住吉に屯営した。
 皇后は、忍熊王が軍を興して待っていると聞き、武内宿禰に皇子を懐かせ、迂回して南海へ出るように命じ、紀伊水門に泊らせた。皇后の船はそのまま直に難波へ向かい、忍熊王が更に軍を退いて菟道に布陣したので、皇后は南下して紀伊に至り、皇子と日高で再会した。そこで群臣に諮って遂に忍熊王を攻めんとし、更に小竹宮に遷り、武内宿禰と和珥臣の祖の武振熊に命じて忍熊王を撃たせた。宿禰等は精兵を選んで山背へ進み、菟道に至って川北に屯した。忍熊王も陣営を出て戦おうとしたが、時に忍熊王の先鋒に熊之凝という者があり、自軍の兵士を激励しようと声高らかに歌を詠んだ。その歌詞の中には「内の朝臣が 腹内は 小石あれや(武内朝臣の腹の中に小石はあるのか)」という何とも意味深な文句が含まれている。
 宿禰は全軍に令して尽く髪を結い上げさせ、「各々控えの弦を髪の中に隠し、また腰には木刀を佩け」と号令した。そして忍熊王に向かい、皇后の言葉と称し欺いて言うには、「吾は天下を貪らず。ただ幼い御子を懐いて君王に従うのみ。どうして戦うことがあろうか。願わくは弦を絶ち武器を捨てて和睦しよう。そして君王は天位に登り、御座に安んじ枕を高くして、万世の政をなさればよい」と。そして軍中に令して尽く弦を絶ち刀を解かせ、河の中に投げ入れた。忍熊王はその偽りの言動を信じ、軍衆に令して刀を解いて河に投げ入れ、弦を絶たせた。そこで宿禰は全軍に令して、隠していた弦を出して弓に張らせ、真剣を佩かせて河を渡り進軍した。
 忍熊王は欺かれたことを知ると、倉見別と五十狭茅宿禰に向かって、「吾は既に欺かれた。今控えの武器はない。どうして戦うことができようか」と言い、兵を率いて退却した。武内宿禰は精兵を出してこれを追い、逢坂で追い付いてこれを破った。故にその地を名付けて逢坂と言う。更に逃げた軍衆は狭狭浪の栗林に至って多く斬られた。忍熊王は逃げ場を失い、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠むと、共に瀬田川へ入水して薨じた。その屍を探しても見付からなかったが、数日して宇治川に上がったという。神功紀では、この合戦の約半年後に皇后は改めて皇太后となり、この年を以て神功皇后の摂政元年とし、その翌年に先帝を河内の長野陵に葬り、更にその翌年には誉田別皇子を太子に立てたとする。

熊王の乱の戦況

 以上が『日本書紀』に見る二王の挙兵から終戦までの流れである。麛坂王と忍熊王は同腹の兄弟で、史書では二人の出自を仲哀帝の皇子とし、生母は景行帝皇子の彦人大兄命の娘大中姫とされる。彦人大兄命の母は景行朝の有力豪族である吉備氏の稚武彦命の娘で、「大兄」の名が示す通り彼自身もまた数多の景行帝子女の中でもかなり上位の存在だったと思われる。また大中姫は母親も景行帝皇女の銀王で、彦人大兄命と銀王は腹違いの兄妹になる。それに比べて気長足姫は、父親の息長宿禰王が開化帝の玄孫というに過ぎず、家格から言えば大中姫とは比べるべくもない。と言うことは仲哀帝が即位した時点で既に、大中姫は亡くなっていた可能性もある。
 また仲哀帝の享年について、記紀では共に五十二歳としており、これは古代の天皇の年齢が両書で一致している珍しい例である。そして即位後は都を造営する間もなく筑紫へ遠征し、そのまま陣中で崩じてしまったことや、欽明帝以前の他の天皇の年齢から鑑みて、五十二歳という数字も話半分として捉えると、恐らく仲哀帝は若くして世を去ったものと推測される。従って史書では麛坂王と忍熊王を仲哀帝の皇子としているが、果して反乱を起こせるような年齢の実子がいたかどうかは疑問である。ただ二人の出自がどうであれ、天皇不在の朝廷を託されるだけの身分だったことは間違いない。
 そして麛坂王と忍熊王は、皇后が筑紫で男児を出産して豊浦へ移ったという情報を得ると、明石に仲哀帝の陵墓を造ると称して挙兵し、東国でも兵を集めさせた。船団を並べて淡路から石を運ばせたというのは、水軍によって明石海峡を封鎖したことを意味する。要するにこの時点で二王は、既に皇后と大臣の腹中を疑っており、天皇の留守を預かる皇族として、もし両者に異心が認められた場合は、海戦によって雌雄を決しようとした訳である。これはかつて饒速日命が、神武帝の東征軍を海上で迎撃しようとせず、初めから籠城を選択したのとは好対照を成すもので、後世の関ヶ原と同じく文字通り天下分目の決戦だったと言えるだろう。尤もその関ヶ原の合戦では、豊臣恩顧の大名の多くが東軍即ち徳川方に与しているように、故あってそれぞれの陣営に属していた廷臣達の本音についても、今となっては分からないのだが。
 しかし二王が事の成就を占う狩りを兎我野で催したところ、赤猪が急に飛び出してきて桟敷に居た麛坂王を食い殺すという事故が起きた。これに驚愕した忍熊王は、ここでは敵を待つべきではないと言って、住吉まで退却してしまう。同書では瀬戸内海で両軍が開戦したという話は伝えていないので、恐らく明石海峡に展開していた水軍も退かせたのだろう。ただこれは何ともまずい判断で、天下を賭けた大軍を興しておきながら、しかも未だ両軍共に将兵の本心も定かではない状況で、兄王が急死したくらいで兵を退いてしまったのでは、自ら敵に流れを与えてやるようなものであろう。これは天皇が急死しても兵を退かなかった皇后とは正反対の行動であり、結果としてこの一事が勝敗を決したと言っても過言ではあるまい。
 忍熊王が兵を率いて布陣していると聞いた皇后は軍を二手に分け、皇子と大臣は難を避けて南海から紀州に向かわせ、自らはそのまま難波へ向けて直進したところ、忍熊王が更に宇治まで退却したので、南下して紀州の日高で皇子に合流した。この流れからすると、恐らく大臣と共に皇子を守っていたのは紀州水軍で、これは大和を出立する前に仲哀帝が南海巡幸を行ったという話に繋がってくる。また宇治の地は古来近江防衛の要衝であり、忍熊王が大和ではなく山背の宇治に布陣したということは、当時の都が志賀の高穴穂宮から動いていなかったことを表しており、これは即位後の仲哀帝が新都を定める前に遠征を行ったという記録と一致する。
 そして皇后が武内宿禰と武振熊に忍熊王の討伐を命じると、二人は大軍を率いて敵陣近くまで進攻し、宇治川の北岸に布陣した。恐らく陸路ではなく船で淀川を遡ったのだろう。両軍は宇治川を挟んで対峙したが、宿禰の策略に嵌まって武器を捨てさせられた忍熊王は、敵の騙し討ちに抗う術なく惨敗した。面白いのは記紀の戦記を読んでいると、正々堂々の勝負を称賛する記事は意外と少なく、騙したり騙されたりといった武功ばかりが出てくることである。むしろ「騙された方が負け」のような論調なのだが、いつの時代もそうした謀略だけで歴史が動く筈もないので、あくまで後世に伝える話題として好まれたのだろう。

古事記に見る忍熊王の乱

 一方『古事記』の伝える話は次のようなものである。息長帯日売命が還り上る時、人の心が疑わしかったので、喪船を一つ用意して、御子をその喪船に載せ、まず「御子は既に崩りましぬ」と言い漏らさせた。そうして上ってきた時、香坂王と忍熊王はこれを聞いて待ち構えようと思い、斗賀野に進み出て誓約獦をした。そこで香坂王が歴木に登って見ていると、大きな怒猪が出てきて、その歴木を掘り、香坂王を食い殺した。しかしその弟の忍熊王は、その業を畏まらずに軍を興して待ち迎え、喪船に赴いてこれを攻めようとしたので、喪船からも兵士を下ろして相戦った。
 時に忍熊王は難波の吉師部の祖の伊佐比宿禰を将軍とし、太子の御方は丸邇臣の祖の建振熊命を将軍としていた。忍熊王は山代まで退いて陣容を立て直すと、互いに退くことなく相戦った。ここで建振熊は、欺いて「息長帯日売は既に崩りましぬ。故に戦うべきこと無し」と言わせ、弓弦を絶って偽りの帰服をした。敵将の伊佐比宿禰がこれを信じ、弓を外し刀を納めると、頂髪の中に隠していた弦を取り出し、更に張って追い撃ちした。忍熊王は逢坂まで逃げ退き、再び向かい立って戦ったが、皇后方は更に追い攻めて沙沙那美でこれを破り、尽く敵兵を斬った。追い迫られた忍熊王と伊佐比宿禰は、船に乗って淡海に浮かび、歌を詠み入水して共に死んだ。
 こうして読み比べてみると、細部に差異はあるものの、麛坂王(香坂王)が猪に殺されてから、忍熊王が入水自決するまで、両書でほぼ同じ流れになっていることが分かる。もともと記紀に於ける神功皇后の伝記は、どちらも前半が新羅征伐、後半が忍熊王の乱という二部構成になっており、特に忍熊王の項については、書紀にも異伝が設けられていないので、早くから一個の物語として伝承されていたようである。尤もそれを史実に近いが故に異伝がないと見るべきか、或いは「満場一致は無効」の故事にもあるように、作られた歴史であるが故に異伝がないと見るべきかは、意見の分かれるところであろう。
 そして記紀共に神功皇后の伝記には多少の続きがあり、『日本書紀』ではこの後に皇后の摂政期の話が加えられ、『古事記』では太子と大臣が敦賀に滞在した話を載せて終る。ただ記紀のみならず、いずれの史書でも共通しているのは、忍熊王に勝利してから応神帝が即位するまで、気長足姫の余生を含めて、少なくとも日本国内に限れば、敢て特筆するような波乱もなかったとしていることだ。言わば文字通りの昔話宜しく幸せな結末で終っている訳だか、それは史書に描かれた神功皇后の物語が、必ずしも実話ではないことの裏返しでもある。そして当然それは応神天皇についても言える訳で、実母とされる気長足姫の生涯が史実と異なるのであれば、そもそも誉田別尊とは何者なのか、まずはそれを読み解かない限り、史書の行間に隠された真の歴史に触れることはできないだろう。