史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

垂仁天皇(天之日矛)

垂仁紀と垂仁記

 崇神天皇が崩ずると太子の活目尊が即位した。垂仁天皇である。初めに記紀両書に録された主な治績を挙げておくと、『日本書紀』の垂仁紀は、任那新羅両国との関係に始まり、次いで皇后の兄狭穂彦王の謀反、野見宿祢角力丹波の姉妹、皇子誉津別命、伊勢の祭祀、殉死の禁止と埴輪、石上神宮と神宝、新羅の王子天日槍の神宝と続き、田道間守を常世の国へ遣わした話を記して終る。一方『古事記』の方は、まず王宮の場所と后妃皇子女を詳細に書き連ねた後、皇后の兄沙本毘古王の謀反、皇子本牟智和気王、丹波の姉妹と続き、紀と同じく多遅摩毛理を常世の国へ遣わした話で終る。記紀共に多くの文字数を割いているのは、皇后の兄の謀叛の話と、皇后の産んだ物言わぬ皇子の話で、この二つが垂仁帝の伝記の骨子となっている。

垂仁紀に見る朝鮮外交

 『日本書紀』垂仁紀の冒頭に語られる任那新羅に関する伝承は、任那が蘇那曷叱智*1を遣わして朝貢して来たという崇神紀の末尾に付せられた挿話から続くもので、本文の他にもいくつかの異伝を併載する。まず本文に言うところでは、垂仁帝が即位して間もない頃、蘇那曷叱智が国へ帰りたいと申し出た。先皇の世に来朝して未だ還らなかったのろうか。そこで天皇は彼に敦く賞し、赤絹百匹を齎して任那王へ贈らせた。然るに新羅人が道を遮ってこれを奪った。両国の遺恨はこの時に始まったという。
 また「一に曰く」として次のような話を伝える。崇神帝の世に額に角の有る人が一つの舟に乗って越国の笥飯浦に着いた。故にその他を名付けて角鹿と言う。何れの国の人かと問うと、答えて言うには、大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等*2、またの名を于斯阿利叱智干岐*3と言う。日本国に聖王が有ると伝え聞いて帰化した。穴戸に到った時、その国の伊都都比古が臣に語って言うには、吾はこの国の王である、吾を除いてまた二人の王はいない、故に他処へ往ってはならぬと。しかし臣がつらつらその為人を見るに、必ずこれは王ではあるまいと知った。そこでそこから立ち去ったが、道路を知らなかったので、嶋浦を流浪しながら北海を廻り、出雲を経てここに至ったと。
 ほぼ時を同じくして崇神帝が崩じたため、そのまま留まり垂仁帝に仕えて三年が経った。垂仁帝が都怒我阿羅斯等に国へ帰りたいかと問うと、願わくは帰りたいと答えたので、天皇は詔して、汝が道に迷わず速く詣で来ていれば、先皇に遭って仕え奉れたことだろう、これよりは汝の本国の名を改めて、御間城天皇の御名を取って汝の国の名にせよと言い、赤織の絹を阿羅斯等に賜って本土へ返した。故にその国を号して弥摩那国というのは、この縁によるものである。阿羅斯等は賜った赤絹を自国の府庫に収めたが、それを聞いた新羅人が兵を起してやって来て、その赤絹をみな奪ってしまった。両国が相怨むようになったのはこれが始まりだという。
 どちらも大体の流れはほぼ同じで、とある天皇の晩年に任那の王子が国使として日本へ渡って来て、しばらく次の天皇に仕えた後に本国へ戻って行ったのだが、帰国の際に天皇から下賜された品々を新羅人が奪ったため、これを機に両国の遺恨が始まったという話である。因みに『古事記』では、角鹿(敦賀)の地名にまつわる伝承について、垂仁帝ではなく仲哀帝の項に、武内宿禰と太子(応神帝)が若狭に赴いた折、太子と気比大神が名を交換した逸話に絡める形で出てくる。同じく『日本書紀』では、仲哀帝敦賀に巡幸した際に建てた行宮を笥飯宮と呼んだという話が仲哀紀に見える。
 また『日本書紀』では「一に云はく」として、更に次のような話を伝える。都怒我阿羅斯等が国に居た時、飼っていた牛が急にいなくなったので、足跡を追ってとある村に入って行くと、その村の人々が殺して食ってしまったという。村人が物で償うと言ったので、阿羅斯等は村で祀られている神を所望し、牛の代価として御神体の白い石を得た。その白い石を持ち帰って寝所に置いたところ、石は美しい娘になった。阿羅斯等は大いに喜んだが、少し離れている間に娘は失せていた。阿羅斯等は大いに驚き、娘はどこへ行ったかと妻に尋ねると、妻が答えて言うには東の方へ行ったという。そこで尋ね追い求めて行くうちに、遂に遠く海を越えて日本に入った。その求めていた娘は、難波に至って比売語曾社の神となり、または豊国の国前郡の比売語曾社の神になったという。

天之日矛帰化

 続いて『日本書紀』本文では、新羅の王の子の天日槍*4帰化した話を載せる。天日槍が持参したのは、羽太の玉一個、足高の玉一個、赤石の玉一個、小刀一口、桙一枝、日鏡一面、熊の神籬一具、合せて七点あり、それらを但馬に蔵して神宝にしたという。また「一に云はく」として次のように記している。初め天日槍は艇に乗って播磨に着いた。天皇が使者を遣わして「汝は誰か、また何れの国の人か」と問わしめると、天日槍は答えて「僕は新羅国の主の子である。しかし日本に聖皇があると聞き、自国を弟の知古に授けて帰化した」と言い、三種の珠、刀子、槍、日鏡、神籬、太刀の八物を奉った。天皇は好きな土地に住むことを赦し、天日槍は自ら諸国を巡り視て但馬に居を定めたという。
 一方の『古事記』では、新羅の国主の子の天之日矛が渡って来たという話を、「昔」と前置きした上で応神記に挿れている。尤もそこで語られている内容は、前記の都怒我阿羅斯等が娘を追って日本へ渡って来た話とほぼ同じもので、記紀の間で阿羅斯等と天之日矛の伝承に混同が見られる。一方で記紀共に天日槍は但馬に居を構え、その後も代々「タジマ」の名を冠する子孫が栄えたとする点は同じで、垂仁帝が常世の国へ遣わしたという田道間守は、日槍の玄孫に当たるという。無論垂仁帝の代に帰化した者の玄孫が、同じ主君に仕えられる筈もないので、この設定は日槍か田道間守のどちらか一方、もしくはその両方の時系列に狂いが生じているのは言うまでもない。
 ではここに記されているように、蘇那曷叱智または都怒我阿羅斯等という加羅の王子と、天日槍という新羅の王子が渡来したのは、果して垂仁帝の治世の出来事なのであろうか。実質的な初代天皇である崇神帝と、次代垂仁帝の在世というのは、女王卑弥呼の時代から少し間を置いた、西暦三世紀の後半から四世紀前半頃と推測される。しかし日本と朝鮮半島における国家間の交流が、ある程度信頼できる史料によって確認できるのは、最も古いものでも四世紀の後半以降のことであり、現時点では記紀に記された崇神・垂仁両朝と朝鮮との関係を裏付けるだけの証拠はない。
 また大和朝廷が日本を統一するのは、崇神帝の孫の景行帝の代なので、仮に加羅新羅の王子が崇神・垂仁両帝の時代に大和へ来朝していたとしても、それは統一王朝の帝王に対する外交ではなかったことになる。ただ未だ統一王朝ではなかったにせよ、当時の大和が既に日本有数の勢力であったことは間違いないので、例えば後の戦国時代に日本へ入国したキリスト教の宣教師が、豊後の大友氏など九州の諸大名の城下で布教を始めたものの、京都に真の王がいると知って向かった先で信長に拝謁したように、加羅新羅の国使が東の大国大和を目指したのは何ら不思議な話ではない。むしろ都怒我阿羅斯等が初め穴戸に留まり、やがて大和へ辿り着いたという件などは、それを如実に表しているとする見方もある。
 しかし少なくとも加羅の王子の来朝に関しては、記紀共に敦賀にまつわる逸話が仲哀帝の項にも見えるように、恐らくこれは崇神帝ではなく、景行帝の事跡と捉えるのが妥当ではあるまいか。要は四世紀の後半頃、新興の新羅百済の脅威に曝されていた加羅が、景行帝の下で統一された日本に加護を求めたと考える方が、その後の日本と朝鮮半島の情勢を鑑みても、ほぼ時代的に合致するからである。そして景行帝が崩じた後、成務帝に仕えていた加羅の王子が帰国するに当たって、太子の足仲彦尊(仲哀帝)に敦賀まで送らせたのかも知れない。また本来これとは別の故事として、任那の国名は御間城天皇に由来するという伝承もあったが故に、『日本書紀』の編者がこれらの話を取捨選択して、そのまま垂仁紀に入れてしまったものと思われる。

新羅王室と天之日矛

 次に天日槍という帰化人について見ておくと、史書では彼を新羅の王子としているが、その出自について明確に記された史料はない。そこで様々な状況から新羅における天日槍の続柄を辿ろうとする試みが為されており、中でも有力な説は彼を第四代新羅王脱解尼師今(尼師今は新羅の君号)の子に比定する説である。新羅王室三姓の一つである昔氏の祖とされる脱解王は、その出自が新羅人ではなく渡来人であり、日本列島の出身という説が有力視されている。朝鮮の正史である『三国史記』によると、脱解王の故国は倭国の東北一千里にある多婆那国で、賢者として知られたことから二代新羅王南解次次雄の目に留まり、その娘を娶ったことで王族待遇を受け、遂には太輔という国家の最高位を許されるまでになったという。
 娘婿の脱解が王位に即くまでの経緯に触れておくと、彼にとって主君であり義父でもある南解王の死後は、妻の兄に当たる太子が王位を継承した。これが第三代新羅王儒理尼師今であり、姓は朴氏である。やがてその儒理王の死後、王の実子ではなく義弟の脱解が遺命により第四代新羅王として即位し、王室の姓は昔氏となる。しかし脱解王の死後は儒理王の子の婆娑尼師今が王位を継承し、王姓は再び父系の朴氏に戻されている。従って天日槍が脱解尼師今の子だとすると、彼は王子でありながら王位継承から外れており、そこで新羅を捨てて父の祖国である日本に渡って来たという訳である。この説に従うと天日槍は、父親が多婆那人、母親が新羅の王女という血統になる。
 では垂仁帝と天日槍という、古代日本史の主要人物二人は、果して同じ時代を生きていたのであろうか。『三国史記』では、斯蘆(新羅)の建国即ち初代斯蘆王赫居世居西干の即位を漢宣帝の五鳳元年、甲子(干支の最初)の年とする。これを西暦に直すと紀元前五七年となり、赫居世の孫娘婿である四代脱解尼師今の在位期間は、紀元五七-八〇年となっている。しかし当然ながらこうした数字は、現実的には到底有り得ないものであって、これは朝鮮半島と斯蘆の歴史を誇称せんがために、歴代の王の年齢や在位期間を実年よりも長く見積るなどして、その起源を故意に遡らせようとした後世の造作であることが既に解明されている。
 そしてそれは日本にしても似たようなもので、『日本書紀』に記された歴代天皇の年齢や在位期間を基に年代を遡ると、初代神武帝の即位は紀元前六六〇年ということになり、これが所謂皇紀元年である。その皇紀に従えば垂仁帝の在位期間は紀元前二九年-紀元七〇年となるため、『三国史紀』の脱解尼師今の在位期間と一致する訳である。従って天日槍を脱解王の子とする論理は、その殆どがこの計算に拠るものと思われる。尤も日本の史書の場合は、後世の意図的な造作と言うよりも、口伝による天皇の年齢や在位期間を、そのまま活字にしてしまっただけの話なのだが。因みに邪馬台国の女王卑弥呼の時代というのは、皇紀では神功皇后の摂政期に当たるため、正史の『日本書紀』はこの時系列に従い、魏と邪馬台の交流については神功皇后の項で触れている。
 仲哀帝の皇后として、夫の死後に新羅遠征を断行した神功皇后こと気長足姫は、天日槍の血を引く王族の一人で、彼女の母方の祖父の多遅摩比多訶が、田道間守と同じく天日槍の玄孫に当たる。そして仲哀帝は垂仁帝の曾孫なので、田道間守が垂仁朝に仕え、その兄弟(もしくは同世代の親族)の孫娘が垂仁帝の曾孫に嫁いだ訳である。そして面白いことに、神功皇后が兵を率いて渡海した時の新羅王というのは、第五代婆娑尼師今(書紀では波沙寐錦に作る)であり、この王は脱解尼師今の甥なので、天日槍が脱解王の子だとすると、二人は従兄弟の関係に当たる。言わば天日槍の玄孫の孫娘に当たる気長足姫が、その祖先と同世代の新羅王を臣従させたという、時間的には何とも辻褄の合わない設定になっているのだった。

但馬氏の祖としての天之日矛

 更に垂仁紀では、天日槍の子孫にまつわる次のような話を載せる。垂仁帝の八十八年、群卿に詔して言うには、新羅の王子の天日槍が初めてやって来た時、持って来た宝物が今は但馬にあり、国元の人々に貴ばれて神宝になっているという、朕もその宝物を見てみたいと。そこで使者を遣わして、天日槍の曾孫の清彦に詔すると、清彦は勅を奉じて自ら神宝を捧げて献上したという。この但馬清彦の出自について、紀では天日槍の曾孫で田道間守の父とし、記では清日子を天之日矛の玄孫で多遅摩毛理の弟とするが、いずれにしても日槍の三世乃至四世の子孫であることに変りはなく、とても両者が同じ時代を生きられるような続柄ではない。
 従ってこうした矛盾を読み解いて史実に近付こうとするとき、そこから導き出される結論は、史書の中で朝鮮半島からの渡来神天日槍と呼ばれているのは、もともと世代の異なる二人の足跡が一つになったものだということである。仮にそれを新旧二人の日槍とすると、古い方の日槍というのは、田道間守や気長足姫の祖先としての日槍で、垂仁帝に神宝を献上した清彦の曾孫に当たる気長足姫が、垂仁帝の曾孫である仲哀帝に嫁いでいるのは、系図的にも世代が一致しているので、ここはある程度史実と見做して問題ないだろう。また清彦と田道間守が共に日槍の玄孫だったとしても、田道間守が常世の国に遣わされたのは垂仁帝の最晩年であり、帝との間には親子ほどの年齢差があったとも考えられるので、やはり皇室と但馬氏の世代数は一致する。
 そして天日槍は田道間守の高祖父だから、これに従えば古い方の日槍は垂仁帝よりも三世代ほど前の人物ということになる。要は崇神帝の祖父の世代であり、年代的には女王卑弥呼とほぼ同じ時代である。またこれを仄めかすような伝承もあって、例えば『播磨風土記』によると、渡来した天日槍と絡んだ日本側の権力者は大和の天皇ではなく、国神の葦原志許乎となっている。この葦原志許乎というのは大国主命と同義なので、日本の土着神と半島からの渡来神の対比という構図が見て取れる。そもそも渡来神の名称が「天」で始まること自体不可解なのだが、これは日槍本人もしくはその祖先が、故国の山頂に天降ったと自称していたからだともいう。ともあれ現実的に考えれば、既に人代に入って久しい垂仁朝期の帰化人に対して、天日槍などという神名が与えられることは有り得ない。

新羅の王子としての天之日矛

 次に新しい方の日槍とは誰かというと、これは史書にある通り新羅の王子としての日槍で、当然その出生は新羅建国以後となり、応神記では天之日矛の話を「昔」と前置きした上で伝えていることから、来日の時期は景行帝から仲哀帝までの間だったと推測される。では彼が新羅の王子だったとして、その父王は一体誰だったのかと言えば、やはり考えられるのは第三代新羅王儒理尼師今、もしくは次代脱解尼師今の二王であろう。と言うのも前述の通り『日本書紀』によると、神功皇后が朝鮮に出兵した時の新羅王は第五代婆娑尼師今だが、もしこの婆娑王の子が日本に来ていたならば、皇后率いる倭軍が新羅に攻め入るとは考えにくい。そして婆娑王は儒理王の子(異説あり)ではあるものの嫡子ではなかったので、王位継承から外れた他の王子が日本へ帰化したとしても不思議ではないし、それが脱解王の子ならば猶更である。
 そして仮に日本へ帰化した新羅の王子が脱解尼師今の子だったとして、その脱解王の故地である多婆那国が但馬だったとすると、かつて天日槍と呼ばれた朝鮮半島からの渡来人が但馬へ移り住み、数代を経た後にその但馬から朝鮮へ渡った男が新羅の王女を娶って同国の王となり、その子が新羅の王子として再び日本へ舞い戻り、同じく天日槍の子孫である但馬氏を母方の祖父に持つ神功皇后に出会うという、日本と新羅を股に掛けた壮大な歴史絵巻となる。また意外と指摘されないことなのだが、そうした史料による裏付のない浪漫は別にしても、この時期に新羅の王子が帰化したという事実は、当時の国際情勢を読み解く上でも極めて重要な事件である。
 何故なら景行帝の末期から成務帝もしくは仲哀帝の治世に新羅の王子が来日し、やがて神功皇后武内宿禰の率いる日本軍がその新羅へ攻め入るという展開は、とても偶然とは思えぬほど時期が一致しているからである。例えば仲哀帝熊襲征伐から皇后の新羅遠征に至るまでの経緯について、史書では一貫して神託に導かれたとしているが、もしそこに父親が日本人で母親が新羅の王女という出自を持つ前新羅王の子や、王位継承争いに敗れた現新羅王の兄弟等が深く関わっていたとすれば、或いは記紀に語られる文言の中からも今までとは全く違う世界が見えてくるだろう。
 要するに記紀のような書物のみならず、西日本の各地で伝承の残る天日槍という人物は、女王卑弥呼とも近い時代に渡来して但馬周辺に土着した人物(もしくは集団)と、仲哀帝神功皇后の時代に新羅から帰化した人物が、史書の中で意図的に同一化された存在だと考えられる訳である。但し『風土記』や神社等に伝わる日槍像は専ら前者であり、後者はむしろ前者と同一化させることで歴史の表舞台から消し去られたようにも見える。その点では素戔嗚尊大国主命に通じるものもあるが、なぜ後者の日槍の存在を消さなければならなかったのかについては、成務帝から仲哀帝、そして応神帝へと続く皇位継承の中にその真相を解く鍵があると思われるので、それについては後述する。

*1:そなかしち:人名

*2:つぬがあらしと:角がある人?

*3:うしありしちかんき:牛の伝承にまつわる名

*4:あめのひぼこ:天之日矛