史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

崇神天皇(まとめ)

出雲の神宝と皇太子の選定

 『日本書紀』の崇神紀は、まず即位と后妃皇子女に始まり、次いで神々の祭祀、四道将軍と武埴安彦の謀叛、大物主神の妻問、御肇国天皇の称号、皇太子の選定、出雲の神宝と続き、造営した池を顕した後、任那が使者を遣わして朝貢してきた話を記して終る。一方の『古事記』は、まず即位と后妃皇子女、次いで神々の祭祀,三輪山の伝説、建波邇安王の反逆と続き、初國知しし天皇の称号と造営池を記して終る。文字数が多いのは記紀共に大物主神に関する話と武埴安彦の反乱の話で、この二件が崇神帝の治世で最も重要な出来事だったことが分かる。在位中に造営した池名を挙げるのは、崇神帝以降に見られる記紀共通の項目で、宮殿の地名や后妃皇子女の姓名と同様に、その後の歴代天皇の治績に於いても踏襲されて行く。
 『古事記』では語られていない出雲の神宝について軽く触れておくと、その治世も晩期になった頃、かつて天日照命が天から持ち来った神宝を出雲大神の宮に収めてあるというが、これを見てみたいと崇神帝が言い出した。そこで武諸隅(矢田部造の祖)を遣わして献じさせようとしたところ、時に神宝を司っていた出雲振根(出雲臣の祖)は筑紫へ行って不在だったため、その弟の飯入根が皇命を承り、弟の甘美韓日狭と子の鸕濡渟に付けて神宝を奉った。筑紫から戻った出雲振根は、神宝を大和に献じたという話を聞くと、「数日待つべきだった。何を恐れて容易く許したのか」と弟の飯入根を責めた。その後の展開を見る限り、崇神帝は出雲に神宝を返さなかったようである。
 時を経ても出雲振根は飯入根に対して恨みと怒りを懐いており、いつか殺そうと思っていた。あるとき兄は、共に淵を見に行こうと弟を欺き、秘かに真刀に似せて作っておいた木刀を佩いて行った。淵に着くと、水が清らかだったので、兄は弟を水遊びに誘い、お互い佩いていた刀を解いて水中に入った。すると兄が先に上がって弟の刀を取って構えたので、驚いた弟が兄の刀を取って討ち合ったものの、兄の刀は木刀だったので抜くことができず、弟の飯入根は斬り殺されてしまった。甘美韓日狭と鸕濡渟が朝廷に参り来て、その状況を詳しく奏上したので、崇神帝は吉備津彦武渟川別を派遣して出雲振根を殺させた。すると出雲臣等はこのことを畏れて、しばらく出雲大神を祭らなかったという。
 以上がこの挿話の大まかな流れだが、当然これは彦坐王もしくは丹波道主命による丹波攻略を経て、その先の出雲までが既に崇神帝の傘下に入っていたことを前提としている。因みに『古事記』では、予め詐刀を仕込んでおき、水遊びを誘って相手に太刀を解かせ、真剣とすり替えて殺したという同じ話と、その際に詠まれたという同じ歌が、倭建命と出雲建の間の逸話として出てくる。どちらも出雲を舞台にしていることから、恐らくこれは一つの原話が混同して伝わり、記紀の撰者がそれぞれ異なる方を採用したものと思われるが、同時にそれは崇神帝と景行帝の業績が混同されているということでもある。また古墳時代出雲国造世襲した家系については、記紀共に天穂日命の子孫が朝廷から国造に任ぜられたと伝えており、出雲振根等を祖とする出雲臣とは全くの別系統となっているのだが、両者がいつ頃どのような形で入れ替わったのかについてはよく分かっていない。
 同じく『古事記』にはない皇太子選定の話は次のようなものである。崇神帝は豊城尊と活目尊に勅して、汝等二子は共に斉しく愛おしい、いずれを後嗣にしかものか分からない、各々夢を見るがよい、朕がその夢を以て占おうと言った。二皇子は命を承り、浄休して祈ってから寝ると、それぞれ夢を見た。夜明けに兄の豊城尊が夢見を上奏して言うには、御諸山に登って東に向かい、八度槍を突き出し、八度刀を空に振ったと。弟の活目尊が夢見を上奏して言うには、御諸山の頂に登って、縄を四方に引き渡し、粟を食む雀を追い払ったと。崇神帝は二皇子の夢を占い、兄は偏に東を向く、まさに東国を治むべし、弟は遍く四方に臨む、朕の位を継げと言い、活目尊を立てて皇太子とし、豊城尊には東を治めるよう命じた。この豊城尊は上毛野君と下毛野君の祖とされる。

崇神紀略年表

 以上が史書に記された崇神天皇の大まかな生涯だが、実のところ誰しも知りたいのは、崇神帝のみならず古代の歴代天皇の治世が、ある程度は信頼できる形で日本史の年表として体系化されることだろう。記紀はどちらも同時代に成立した官撰史書だが、両書はそれぞれ異なる編集方針によって作成されており、個別の伝承を並立して収録する『古事記』に対して、『日本書紀』は天皇の治世を年代順に記録しているので、(それが正しいかどうかはともかくとして)歴史を一つの流れとして追跡しようとするなら、やはり正史の書紀を頼りにするしかない。そこで改めて崇神紀の記録を略年表にして見てみると、大体次のようになる。

崇神元年
 春一月即位。
 二月、御真城姫を立てて皇后とする。
崇神三年
 秋九月、都を磯城に移す。これを瑞籬宮という。
崇神四年
 冬十月、群臣に詔して天下の計を図る。
崇神五年
 国内に疫病多く、民の死亡するもの半数を過ぎる。
崇神六年
 百姓流離し、或いは背叛するもの有り。朝夕天神地祇に祈る。
 これより先に天照大神と倭大国魂の二柱の御殿内での並祭を廃止。
 二皇女に託して御殿の外に祀らせる。
崇神七年
 春二月、天下の治まらぬことを憂い、八十万の神々を招いて占う。
 大物主神が現れて、天下が治まらぬのは我が意であると告げる。
 八月、普く天下に大田田根子を求める。
 十一月、大田田根子大物主神を祀らせる。疫病収まり国内鎮まる。
崇神八年
 夏四月、高橋邑の活日を大物主神の酒を掌る役に任じた。
 冬十二月、大田田根子大物主神を祀らせる。
崇神九年
 春三月、天皇の夢に神人が現れて祭祀を薦める。
 四月、夢見のままに墨坂神と大坂神を祀る。
崇神十年
 九月、将軍を四道に派遣。武埴安彦の謀反。
 十月、謀叛鎮定。四将に改めて出発を命ず。
崇神十一年
 夏四月、四道将軍、地方を平らげたことを奏す。
崇神十二年
 春三月、詔して群臣に戸役を令す。
 秋九月、初めて人民を整えて調役を課す。天下太平となる。
 故に称して御肇国天皇という。
崇神十七年
 秋七月、諸国に令して運搬用の船を造らせるよう令す。
 冬十月、初めて船を造る。
崇神四十八年
 春一月、豊城命と活目尊の二皇子に夢見を命ず。
 四月、活目尊を太子に立てる。
崇神六十年
 秋七月、出雲の神宝を求む。
崇神六十二年
 秋七月、詔して河内国に池溝を造るよう命ず。
 冬十月と十一月に三池を造る。
崇神六十五年
 任那が蘇那曷叱智を遣わして朝貢する。
崇神六十八年
 冬十二月、崇神天皇崩御。時に百二十歳。
 翌年八月、山辺道上陵に葬る。

 こうして見てみると、崇神十七年から四十八年までの間に、実に三十年もの長い空白があるのに気付く。またその後も崇神六十年まで再び十年以上記録がない。こうした奇妙な空白の期間は、他の帝紀にも必ずと言ってよいほど見られる現象で、当然そこには秘めたる意図が隠されている訳だが、それについてはまとめて後述する。勘の鋭い人ならば、この空白の三十年を無視して崇神四十八年を十八年と読み、出雲の神宝や任那朝貢の話を省いて六十八年も同じく十八年と読めば、即位から十八年間の崇神天皇の治世が、一連の流れとして無理なく繋がることに気付くだろう。このからくりこそが帝紀の年代を読み解く鍵であり、故にこれを解き明かすことさえできれば、卑弥呼から欽明天皇までの古代日本史が、一個の完成された歴史として浮かび上がってくる訳である。