史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

崇神天皇(四道将軍)

四道将軍の派遣

 一通り諸神の祭祀を終えた崇神帝は、周辺諸国の平定に着手する。即ち大彦命を北陸へ、武渟川別を東海へ、吉備津彦を西海へ、丹波道主命丹波へ遣わして、伏さぬ者は討てと命じた。所謂四道将軍である。これは現代で言うところの方面軍制度であり、日本史上で再びこれをやったのは織田信長一人しかいない。織田家の軍制下でも、柴田勝家を北陸へ、滝川一益を関東へ、羽柴秀吉を中国へ派遣し、明智光秀には丹波から山陰への国替えを命ずるなど、崇神帝とほぼ同じ将配置となっている。更に信長は丹羽長秀四国征伐の準備をさせていたが、前記の如く記紀に四国遠征の記録はない。
 但し四道将軍というのは『日本書紀』に倣った呼称で、『古事記』では大毘古命を高志(越)道へ、その子の建沼河別命を東方十二道へ遣わして伏わぬ人々を和させ、日子坐王を旦波国へ遣わして玖賀耳之御笠を殺させたとあり、吉備は入っていない。それぞれの将が派遣された地域と、その意図するところを考察してみると、北陸にも兵を進めているということは、既にこの頃の高志には相応の国が存在していたことを示しており、そこには敦賀を始めとして日本海航路の基点となる複数の交易港があった。丹波畿内と山陰を結ぶ山陰道の起点であり、当然その先には大国の出雲を見据えていたことだろう。残る東方について言えば、駿河以東を平定したのは日本武尊であり、飛騨が併合されるのは仁徳帝の代なので、ここで言う東海というのは専ら美濃尾張近辺かと思われる。

諸将の人選

 次に将の配置とその続柄を見てみると、大彦命崇神帝の祖父孝元帝の皇子で、先代開化帝の実兄に当たり、娘の御間城姫(垂仁帝の生母)は崇神帝の皇后という皇族随一の有力者である。史書の系譜によると、両者共に生母は孝元帝皇后の鬱色謎命で、大彦命が第一皇子、開化帝が第二皇子となっている。この大彦命と開化帝のように、同腹の兄弟でありながら兄ではなく弟が家督を相続するという方式は、古墳時代以前の日本に数多く見られる事例の一つである。そもそも初代天皇である神武帝にしてからが末弟であり、東征の際には長兄の五瀬命が先鋒を務めるなど、まるで後の武家社会において弟は兄に仕えるのが当然とされたように、兄の方が家長の実弟に仕えたという記録も散見されることから、末子相続が慣習化されていたとの見方もある。
 例えばこれが織田信長のように、実親の偏愛によって弟が好まれたというのであれば、時代や貴賎を問わずによくある話だが、基本的にそれを正常な状態とは見做さないだろう。また一部の遊牧民の風習として、成人した男子は財産分与を受けて順次独立するため、最終的に残った末子が家督を相続するという事例はある。しかし古代日本の場合は、何らかの法制度もしくは慣習によるものと思われる末子相続であり、もしそれが事実ならば当然そこには、それを許容する伝統的な家族制度なり、思想や信仰に基づく常識なりといった、当時の社会基準が存在していた筈なのだが、それ等については今もって解明されていない。或いは末子相続などという慣習はなく、乱世に対応するための能力主義だったとも、平均寿命が短かったために敢て年少者を立てただけとも言われるが、いずれにせよ推測の域を出ない。
 東国へ遣わされたという武渟川別大彦命の子で、崇神帝とは従兄弟であると同時に義兄弟でもある。大彦命武渟川別の親子がそれぞれ北陸と東国へ派遣されたという点に関しては記紀で共通しており、従って(それが同時であったかどうかはともかくとして)これはほぼ史実と見てよいだろう。ただここで興味深いのは、前述の通り大彦尊は孝元帝の第一皇子であり、信頼できる身内でもある反面、その気になれば娘の御間城姫(崇神帝の正妻)や息子の武渟川別を巻き込んで、皇位の簒奪さえも狙える立場にあることだ。にも拘らず崇神帝が両者に大軍を任せていることは、それだけ皇后の身内に対する帝の信任が厚かったとも言えるが、後に叔父の一人である武埴安彦が謀反を企てたように、未だ盤石とは言い難い初期の崇神朝にあって、この人選は特筆すべきものと言えよう。
 丹波へ派遣された将に関して、『古事記』は彦坐王とし、『日本書紀』は丹波道主命としているが、この両者も親子とされているので、これは単に二世代の功績が記紀で混同されたものであろう。彦坐王は開化帝の第三皇子で崇神帝の異母弟に当たり、丹波道主命の娘は後に垂仁帝の後宮に入り景行帝を産むなど、やはり皇族の中でも有力な家系である。ただ試みに織田家の五将の年齢構成を見てみると、信長と一回りほど歳の離れていた最年長の柴田勝家を筆頭に、一益、長秀、光秀の三人はいずれも主君より年上で、年下は羽柴秀吉一人だけであり、現実的にも崇神帝が若い甥っ子に一方面を任せたとは考えにくい。従ってこの場合の人選の記述は、正史の『日本書紀』よりも『古事記』の方が正しいように思われる。

吉備津彦と吉備氏

 吉備津彦は(皇家の系図に従えば)第七代孝霊帝の皇子で、崇神帝の祖父孝元帝の異母兄弟に当たる王族と伝えられており、これは記紀両書でも共通している。因みに吉備津彦の功績について『古事記』では、崇神帝ではなく孝霊帝の項で触れており、そこには「大吉備津日子命(吉備津彦)と若建吉備津日子(吉備津彦の異母弟)とは、二柱相副ひて針間(播磨)の氷河の前に忌□を居えて、針間を道の口として吉備國を言向け和したまひき」とある。そしてこの大吉備津日子命を吉備の上つ道臣の祖、若建吉備津日子を吉備の下つ道臣の祖としており、それが実行された時期はともかくとして、やはり孝霊帝皇子の吉備津彦が吉備を平定したという点では一致している。
 ただ当時のことだから世代と年齢が現代ほどには一致しないとは言え、流石にこの系図は些か無理があるだろう。例えば共に智臣として曹操に仕えた荀彧と荀攸は、お互い叔父と甥の関係にある一族だが、叔父の荀彧が年少で、甥の荀攸が年長である。確かにこうした事例も稀にあるので、世代という要素だけで史書の記述を否定する理由にはならないが、一方で吉備津彦の弟である稚武彦(若建吉備津日子)の子または孫とされる吉備武彦が、副将として日本武尊の東国遠征に従い、その武彦の娘は応神妃だと言う。従って少なくとも稚武彦以降の吉備氏と皇室の系図を対比する限りでは、この兄弟が崇神帝の更に二世代前の皇族ということは有り得ない。では孝霊帝皇子の吉備津彦とは一体誰なのか。
 ここでもう一度皇室と吉備氏の関係を整理しておくと、吉備津彦命こと彦五十狭芹彦命については、記紀共に孝霊帝の皇子とあるだけで、後裔氏族に関する記録はない(他の史料には吉備津彦の後裔とされる氏族を記した書もある)。むしろ吉備氏にとって重要なのは吉備津彦の弟とされる稚武彦(若建吉備津日子)の系譜で、彼の娘の播磨稲日大郎姫は景行帝の皇后であり、同じく彼の子または孫とされる吉備武彦は日本武尊の東征に従軍し、その吉備武彦の娘の兄媛は応神妃という、まさに景行朝から応神朝にかけての超有力豪族だった。そしてこの稚武彦以降の相関図に見る皇室と吉備氏の世代はほぼ合致している。
 同じく崇神帝と他の四道将軍の続柄をもう一度整理すると、崇神帝にとって大彦命は伯父、武渟川別は従兄弟であり義兄弟、彦坐王は異母弟、丹波道主命は甥である。そして丹波道主命の娘の日葉酢媛は景行帝の生母であり、稚武彦の娘の播磨稲日大郎姫は景行帝の皇后だから、稚武彦は明らかに崇神帝から景行帝の頃の人物になる。従って仮にこの吉備兄弟の血統が、古くは孝霊帝皇子にまで遡る皇族だったとしても、当人達が生きて活躍したのは更に二世代以上も後のことである。そして所詮「吉備津彦・大吉備津彦・稚武吉備津彦・吉備武彦」などと言っても、本名ではなく通り名や後世の呼称に過ぎないので、似たような名称または足跡を持っていた孝霊帝の皇子と、その孫か曾孫の出自が混同された例かも知れない。

大和朝廷の実像

 実のところ史書というものは、話の前後で辻褄の合わないようなところが多々あって、元よりそれは記紀の中にも随所に見受けられる。この有名な四道将軍の伝承にしても、もしこれが崇神帝の治世に実行された事業であるとすれば、逆に神武帝の東征以来その子孫が大和を統治していたという設定を頭から否定する結果になってしまうのである。何故なら十代にも渡ってその土地に根を張っていた勢力が、ある日突然多方面に戦線を広げることなど、現実的に有り得ないからだ。従って第十代崇神天皇という帝王が大和に君臨した背景は、どこか別の土地からやって来て大和を征服したか、或いは下剋上によって大和を支配していた主君に取って代ったか、或いはその両方だったと考えられる訳である。
 例えば後の戦国時代でも、幾代にも渡って地盤を築いてきた大名が、同時に複数の隣国へ侵攻する形で、放射状に版図を広げようとした例は(織田家を除いて)まず皆無と言ってよい。これは駿河の今川氏、関東の北条氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏等を見れば分かることで、彼等は前後左右に敵を作るような真似は決してしなかったし、一方の隣国と戦をする際には、他方の隣国とは必ず講和を結んでいた。と言うより利害対立のない大名同士は、和親によって姻戚関係を築いたり、互いに不可侵の同盟を結ぶのが常識であり、そうした先祖代々の因果を一方的に全てご破算にして、ある日突然四方を敵に回すなどというのは、とても正気の沙汰ではない。無論これは戦国の日本に限らず、春秋戦国時代や近世の欧州など、古今東西を問わずに当て嵌まることである。
 日本史上唯一の例外である信長にしたところで、彼が方面軍制度を導入したのは、室町幕府最後の将軍であり当時の主君でもある足利義昭を追放し、右大将として安土を拠点にしてからのことで、尾張の小領主時代は無論のこと、尾張美濃二国を領していた時でさえこんな真似はしていない。同じく漢土に於ける例として、三国時代曹操の軍制が挙げられるが、彼が方面軍制度を採用したのも、丞相として後漢朝の実権を掌握してからのことである。そもそも軍勢を全方面に派遣もしくは駐屯させるということは、当然ながら自国に服従しない者は全て敵ということであり、それは取りも直さず自分と対等の存在は認めないということ、即ち一者による天下統一の意思表示でもあった。
 また崇神帝が十代に渡って大和を統治していた王家の血筋ではなく、あくまで新興の勢力だったことを示す好例として、四道将軍の人選が挙げられる。記紀を問わずに崇神帝が各方面に派遣した将軍は、いずれも従兄弟や異母弟といった近しい身内であり、これは家臣の中に一方の大将を託せるだけの人材がいなかったこと、つまり当時の皇家にはそれだけの歴史の蓄積がなかったことを表している。同じことは曹操についても言えて、晩年になると血の繋がらない家臣の中からも将軍を選任しているが、初期の戦場で彼を支えていたのは曹氏や夏侯氏出身の親族であり、その多くは従兄弟やそれに近い同年代の武将達だった。逆に信長の将軍に織田姓の親類衆が少ないのは、彼の家系が尾張織田氏の中では支流だったことと、若い頃に家中で「うつけ殿」と陰口を叩かれていた彼には、初めから信頼できる身内など殆どいなかったからである。

武埴安彦の変

 但しこの方面軍制度は、兵力の大半を自国の周囲に展開してしまうため、まるでドーナツのように中央が手薄になるという欠点を持つ。この虚を衝いた明智光秀の謀叛によって、稀代の英雄織田信長が突然世を去ってしまったのは、日本人ならば知らぬ者のない出来事だが、同じく曹操もまた幾度となく都で暗殺未遂に遭っている。そしてこれと類似の事件は崇神帝の身にも起きていて、帝が各地へ将軍を派遣すると、山背に居た孝元帝皇子の武埴安彦(開化帝や大彦命の異母兄弟、崇神帝の叔父の一人)が謀叛を企てたとある。幸いこの時は異変を察した大彦命が、軍を反転させて戻ってきたことで事無きを得ているが、もし大彦が帰還していなければそれこそ古代版本能寺であった。
 この間の経緯について『日本書紀』では次のように記している。北陸へ向けて出立した大彦が和珥坂(大和国添上郡:山背との国境付近)まで到ったとき(或いは山背の平坂まで到ったとき)、道端の少女が崇神帝に不吉な詩の歌を口ずさんでいた。これを怪しんだ大彦が「汝の言っているのは何のことか」と問い質すと、少女は「何も言わず、ただ歌うのみ」と答えて、重ねて同じ歌を詠うと忽ち姿を消した。そこで大彦が戻って事の顛末を奏上すると、果して武埴安彦と妻の吾田姫が謀叛を企てており、二人は諸将が国を離れた隙を狙って挙兵し、武埴安彦は山背から、吾田姫が大阪から都を挟襲する手筈になっていた。崇神帝は先手を打って五十狭芹彦命(吉備津彦)に吾田姫を討たせ、大彦と和珥臣の遠祖彦国茸に武埴安彦を討たせて無事この反乱を防いだという。
 『古事記』の伝える話もほぼ同じ流れだが、同書では大毘古命と日子國夫玖命に建波邇安王を討たせたと記すだけで、共謀者の妻や吉備津彦の名は見えない。ただここで語られる武埴安彦の謀反劇のように、叔父の一人が惣領を弑して宗家を乗っ取ろうとするというのは何とも生臭い話で、後の武家社会でも幾度となく繰り返されてきた典型的なお家騒動である。要は当時の崇神帝にとって、頼れるのはほぼ身内だけであり、裏を返せば敵となるのもまた身内だった訳である。これが景行帝の頃になると、次第に功臣の子孫から成る家臣団が形成されて行き、それを受けて皇族が朝廷の中枢を担うことは少なくなり、大臣や大将といった重職は家臣の手に委ねられるようになって行く。尤もその家臣連の素性にしても、遡れば王族に端を発している家系が殆どなのだが。

正妻に見る大和朝廷

 同じく崇神帝の治世を境に、その前後での皇室の変化を読み取れる事例として、后妃の出自が挙げられる。例えば皇室の始祖である天孫瓊瓊杵尊は、高天原から日向の高千穂に天降ると、まず現地の神である大山祇神の娘の木花開耶姫を妻に迎えた。この妻定は後の開発地主等にも見られる定石の求婚で、開拓を目的に一族郎党を率いて移住してきた新参者は、まず現地の有力者と縁組をして地盤を固めるのが常道だった。その瓊瓊杵尊木花開耶姫の間に生まれた彦火火出見尊は、山幸彦の名の通り本来は山の幸を統べる神だったが、海神の娘の豊玉姫を妻に迎えている。これは天孫族の領地が五ケ瀬川下流にまで拡大し、海幸彦との争いに勝利した山幸彦の勢力が海岸にまで及んだことを示すものであろう。更に彦火火出見尊豊玉姫の間に生まれた鸕鶿草葺不合尊は、豊玉姫の妹の玉依姫(実の叔母)を妻に迎えており、二代に渡って婚姻を結ぶことで海神族との絆をより一層強固なものにしている。
 その鸕鶿草葺不合尊と玉依姫の間に生まれた神日本磐余彦尊神武天皇)は、初め日向国吾田邑の吾平津媛を娶ったが、東征後は事代主神玉櫛媛の間に生まれた媛蹈鞴五十鈴媛を正妃とした。次いで神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛の間に生まれた第二代綏靖天皇は、祖父と同じく叔母の五十鈴依媛を正妃に立て、続く安寧天皇の正妃もまた事代主神の孫の渟名底仲媛、続く懿徳天皇は姪(同母兄息石耳命の娘)の天豊津媛を正妃とするなど、初期の皇室の正妃は尽く事代主神の系統から選定されている。言わば瓊瓊杵尊から懿徳天皇の頃までの皇室の正妃は、いずれも自家存続のための政略結婚が基本であり、それは貴族として当然の選択だった。
 正妃の選定に変化が見られるのは第五代考昭天皇の頃で、同帝の正妃世襲足媛尾張連の祖の瀛津世襲の娘であり、続く孝安天皇の正妃押媛は実の姪(同母兄天足彦国押人命の娘かと伝える)、続く孝霊天皇の正妃細媛は磯城県主大目の娘、続く孝元天皇の正妃欝色謎命は穂積臣の祖の欝色雄命の妹、続く開化天皇の正妃伊香色謎命物部氏の祖の大綜麻杵の娘と、次第に地方豪族の様相を呈してくる。続く崇神天皇以降の皇室では、正妃即ち皇后は朝廷内の有力皇族から選ばれるようになり、やがて応神天皇以降は原則として皇女に限定された。つまり開拓者から地方豪族へ、豪族から王族へ、王族から王朝へと進化して行ったことが、正妻からも見て取れる訳である。