史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

崇神天皇(大物主神)

崇神天皇の祭祀

  神武天皇の東征から十世代の時を経て、止まっていたこの国の時間が再び動き始めることになる。第十代崇神天皇こと御間城入彦五十瓊殖皇尊(記は御眞木入日子印恵に作る)の登場である。初代神武帝と同じく「御肇国天皇*1(記では初國知らしし御眞木天皇)」と称される崇神帝は、史学的にその実在性が確実視される最初の天皇であり、以後は今日に至るまで皇位に欠史はない。実のところ神武帝から開化帝までの九代というのは、邪馬台国と同じく基本的には考古学の領域に近く、明確に史学の対象と呼べるのは十代以降に限られるので、通常はこの崇神帝をもって実質的な日本史の始まりとする。
 崇神帝は即位すると磯城の瑞籬宮(記は水垣に作る)を都とした。しかし即位後間もなく国中に疫病が流行り、人口が激減するほどの死者が出た。天皇がその状況を憂い嘆いていると、大物主神と名乗る神が夢に顕れて告げるには、世が治まらないのは我が意である、我が子の大田田根子に吾を祀らせれば、直ちに国は平ぐだろうと。そこで天下に令して大田田根子という人物を探し求めると、夢見の通り大物主神の子の大田田根子と名乗る者が見付かったので、崇神帝は「これで天下は栄えるだろう」と大いに喜んだ。果して大田田根子大物主神の祭主とし、長尾市を倭大国魂神の祭主とし、天社と国社(記では天神国祇之社)・神地と神戸を定めると、ここに疫病が初めて息み、国内がようやく静まったという。
 崇神帝が即位するなり大物主神に祟られたこの一件については、記紀共にほぼ同じ話を伝えている。ただ国譲りの神話に依れば、三輪山の祭神は大国主命の幸魂奇魂を大和で分祀したものであり、同じく記紀の公称系図に従えば、崇神帝は国譲りから十数代後の子孫だから、そもそも大物主神の子と崇神帝では世代が全く合わない。また天孫瓊瓊杵尊高天原嫡流であり、その曾孫である神武帝の東征以来、十代に渡ってその子孫が大和を統治していたならば、当然三輪山の祭祀は絶やさなかった筈である。それが崇神帝の治世になった途端、突如として大物主神が疫病を引き起こし、我が子による祭祀を求めるというのは、歴史の筋書きとしても辻褄が合わないだろう。
 また『古事記』では触れられていないが、『日本書紀』本文では崇神帝が大物主神の祭祀に先立って、即位後に天照大神倭大国魂神を祀らせた話を伝えている。それまでこの二柱の神は天皇の殿中に並祀していたのだが、その神の勢いを畏れて共に住むには不安があった。そこで天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭り、倭大国魂神は渟名城入姫命に託して祀らせたところ、渟名城入姫の方は髪が抜け落ち痩せ細って祀ることができなかったという。二人の姫はどちらも崇神帝の皇女で、豊鍬入姫は生涯天照大神の祭主を担い、その後任は垂仁帝皇女の倭姫命(豊鍬入姫にとって姪に当たる)に託された。そして天照大神伊勢国に在す由来は、この倭姫が大神の神託に従って神宮を同地に移したのが始まりだと伝える。
 天照大神と並祀されていたという倭大国魂神については、一体それがどのような神だったのか今もって解明されていない。一般的な解釈としては、大和の地主神とする説と、出雲の大国主命とする説に分かれるが、これは別にどちらであろうと構わない。例えば後世の伊勢神宮に於いても、内宮に天照大神を祭り、外宮に御饌都神の豊受大神を祭るように、祖先神の天照大神と大和の地主神を並祀するのは、大和に宮殿を構える王ならば至って自然な行為だし、古代日本の原型は高天原と出雲が無血統合するところから始まる訳だから、双方の国主である天照大神大国主命を並祀するのも何ら問題あるまい。
 むしろ不自然なのは、崇神帝が両神のことを実の娘に任せて、自身は宮中での祭祀を放棄してしまったことである。前記の如く『日本書紀』ではその理由について、「然して其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」と取り繕っているが、実のところ崇神帝にとってこの二柱の神は、余り縁のない存在だったのかも知れない。恐らく天照大神倭大国魂神を宮中で祀っていたのは、東征以前に大和を統治していた饒速日命とその子孫であり、古代の革命児でもあった崇神帝は、初めのうちこそ前例に倣っていたものの、即位後間もなくそれを廃止してしまったものと思われる。

天照大神大和朝廷

 そもそも天照大神こと大日孁貴*2が、日本の最高神にして日本人の総氏神とされるようになったのは後世のことで、初めからそのような扱いを受けていた訳ではない。数ある神々の中でも特に天照大神が別格となった由来については、壬申の乱で吉野から不破に向かっていた大海人皇子が、伊勢神宮に必勝祈願をして大友皇子を破ったことに始まるとされる。形勢不利と見られていた大海人皇子が、近江朝に劇的な勝利を挙げたのは天照大神の加護だということで、伊勢神宮は即位後の天武帝から格別の尊崇を受けることになった。そして記紀編纂の発案者も同じ天武帝であることから、当然これらの事実が記紀神話の内容に影響している可能性も否定はできない。
 その記紀神話を見ても大日孁貴は決して最高神などではなく、元来の出自はこの国を造ったとされる伊弉諾尊*3の娘であり、彼女より高位の神々は何柱も存在する。また天照大神が日本人の総氏神というのもおかしな話で、独神である彼女には実子がないため、系図上でも直接の子孫など存在しない。従って日本の最高神にして日本人の総氏神というならば、あらゆる氏族の源流である高皇産霊尊か、神世七代の初代である国常立尊を当てるべきで、創造主を最高神とするならば伊弉諾尊伊弉冉尊であろうし、あくまで皇室を基準にするならば瓊瓊杵尊が総氏神となるだろう。
 元より現代まで続くこの国の原型は、高天原と出雲の無血統合によって形作られたというのが神話上の建前だから、それを成し遂げた天神側の大日孁貴と、国祇側の大国主命の二柱を始祖神として崇拝するのは、この国の子孫ならば当然の信仰である。ただ初期の大和朝廷がそれをどこまで重要視していたかとなるとそれはまた別問題で、例えば日本史にあって中世から近世への扉を開いたのが、応仁の乱に始まる戦国の世だったのは間違いない。そして自然な形で近代へ進化するためには近世が必要であり、それは中世から近世へと移行できなかった国が、今なお真の近代国家に成り切れていない現実を見れば分かる。従って百年以上にも渡る戦乱や、それを招いた無責任この上ない室町幕府も、来るべき近世への露払いだったと考えれば、やはり避けては通れぬ道だったのだろう。
 しかしそれはあくまで後世の我々から見た評価で、近代日本の礎を築いた信長・秀吉・家康の三将は、いずれも無能な幕府や長引く戦乱になど何の価値も認めていないし、むしろそれ等を尽く否定するところから事を始めている。確かに戦国時代というのは、ほぼ日本全土が戦場と化した半面、凄まじい勢いで技術革新や制度改革が進行した時代でもあるから、必ずしも暗黒の世界という訳でもないのは事実だが、当時の人々も同じ認識だったとは限らない。同様に古代国家大和を築き上げて、日本史を考古学から史学の世界へと移行させた崇神~景行~応神の歴代天皇が、果して高天原や出雲の神々をどこまで尊敬していたかは疑問と言える。
 実のところ国主としての天照大神を見た場合、恐らく高天原で彼女が担っていた国事は祭祀に関することだけで、国権の決裁を求められることはあったにせよ、一般の国務は実弟の月読尊が代行し、普段は侍女等と共に内裏で過ごすことが多かったものと思われる。しかし後の推古女帝や持統女帝のみならず、国家が女王を戴く時こそ大躍進を遂げるのは、英国を始めとして他国にも多くの事例があるので、或いは大日孁尊の治世もまたそういう時代だったかも知れない。そしてそれが彼女を天照大神という特別な存在にした可能性はあるだろう。
 崇神帝の祭祀に関して、垂仁紀では「一に曰はく」として次のような話を伝えている。皇女の倭姫命天照大神を伊勢の渡遇宮に遷したとき、倭大神が穂積臣の遠祖大水口宿禰に神憑りして言うには、「太初の契りでは、天照大神は尽く天原を治め、皇孫は専ら葦原中国天神地祇を治め、我は親ら国魂を治めるということであった。然るに御間城天皇は神祇を祭ったと言っても、詳しくその根源を探らずに、枝葉に留まったまま疎かにしていた。故に命が短かった。今汝が先皇の及ばざるところを悔いて慎み祭れば、汝の寿命は長く、また天下は太平だろう」と。因みに崇神帝の御年は、『日本書紀』で百二十歳、『古事記』では百六十八歳となっており、他の天皇と比べても決して短命とは言えないのだが、或いは何らかの暗示が隠されているのかも知れない。

 

*1:ハツクニシラススメラミコト=初めて国を統べた天皇

*2:おおひるめのむち

*3:記では伊邪那岐命に作る