史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

日本武尊(東国平定)

東征往路(日本書紀

 熊襲を討伐した日本武尊は、景行帝から統一の仕上げとして東国の平定を託されることになった。そしてこの東国平定によって大和朝廷の日本統一がほぼ完了し、千数百年後の現代まで続く万世一系の日本という国家が完成したことを思えば、それを成し遂げた小碓尊を号して日本武尊と称えるのは、まことに理に適っている訳である。但しその間の帝と尊の親子関係について、記紀両書で真逆の描写がされているのは有名な話で、当然それによって両者の伝説に対する見方も変ってしまう訳だが、そうした細部の相違を別にすれば、やはり記紀共にほぼ同じ物語を伝えている。
 まず『日本書紀』を見てみると、東国遠征の大将として兄の大碓王を推した小碓尊だったが、これを嫌った大碓御子が隠れてしまったため、景行帝は大碓王の不甲斐なさを叱責して人選から外し、再び小碓尊が戦袍を纏うことになった。景行帝は小碓尊を将軍に任じて激励し、吉備武彦と大伴武日に命じて尊に従わせ、七掬脛を膳夫とした。大和を出発した日本武尊は、寄り道をして伊勢神宮に詣で、斎主の倭姫命を訪ねて、天皇の命により東へ向かうことになったので、お暇に伺ったと告げた。倭姫命草薙剣を授け、「慎み、怠らぬように」と諭して尊を送り出した。
 日本武尊駿河に着くと、その地の賊が従ったように見せかけ、欺いて言うには「この野には大鹿が甚だ多く、その吐く息は朝霧のようで、その脚は茂林のようです。出まして狩り給え」と。尊がその言葉を信じ、野に入って狩をしようとすると、賊は尊を殺そうと思い、その野に火を放った。欺かれたことを悟った尊は、火打石で火を熾し、向火を放つことによって逃れることができた。また一に曰くとして、尊の差していた天叢雲剣が自ら抜けて尊の傍の草を薙ぎ払い、これによって逃れることができたので、その剣を草薙剣と称したとある。尊は「殆ど欺かれるところであった」と言い、尽くその賊共を焼き殺した。故にその地を名付けて焼津と言う。
 更に日本武尊は相模に進み、上総へ渡ろうとした。海を望み大言壮語して、「こんな小さな海は、駆けて飛び渡ることもできよう」と言った。しかし海の半ばに到ると忽ち暴風が起こり、御船は漂流して渡ることができなかった。時に尊に従っている妃がいて、名を弟橘媛と言った。穂積氏の忍山宿禰の娘である。その弟橘媛が尊に申し上げるには、「今、風が起こり、波は荒れて、御船が沈もうとしています。これらは尽く海神の仕業です。願わくは賤しい妾の身を、王の命に代えて海へ入りましょう」と。言い終ると波を押し分けて海へ入った。すると暴風が止んで、船は岸に着くことができた。故に時の人は、その海を名付けて馳水と言った。

東征往路(古事記

 以上が『日本書紀』に記された大和出発から上総上陸までの要略だが、一方の『古事記』は次のようなものである。熊曾征伐を終えた倭建命が出雲を経て帰還すると、景行帝は重ねて「東方十二道の荒ぶる神、また伏はぬ人等を言向け和平せ」と命じ、吉備臣等の祖の御鉏友耳建日子を副将に添え、杠谷樹の八尋矛を賜った。君命を拝して罷り出た小碓命は、伊勢の大御神宮に参り、姨の倭比売命に面して、「天皇は全く私が死ねばよいと思っておられるのか。どうして西方の悪しき人等を撃ちに遣わして、返り上ってから未だ幾時も経たぬというのに、軍兵も賜わずに更に東方十二道の悪しき人等を平らげに遣わすのか。思うに私が死ねばよいとの思召しだろう」と言い、患い泣いて暇を告げると、倭比売は草薙剣と御嚢を賜い、「もし急の事あらば、この嚢の口を解き給へ」と諭して送り出した。
 尾張国に到って、尾張国造の祖の美夜受比売の家に入った。倭建命は姫を娶ろうと思ったが、また還り上る時に娶ろうと思い、契りを交して東国へ向かった。相模へ到った時、その地の国造が詐って言うには、「この野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、いと道速振る神なり」と。倭建命がその神を確かめようと野に入ると、国造は野に火を点けた。欺かれたと知った命が、倭比売に貰った御嚢の口を解き開けて見ると、中に火打(火打石と火打金)が入っていた。そこでまず御刀で草を苅り払い、火打で向火を点けて難を逃れると、国造等を尽く切り滅ぼして焼き払った。故にその地を今に焼道と言う。
 更に進んで走水の海を渡った時、その海の神が浪を興し、船が回って進めなくなった。ここに名を弟橘比売命という倭建命の后が、「妾が御子に易りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政を遂げて覆奏したまふべし」と言い、海の中に入ろうとする時に、菅畳八重、皮畳八重、施畳八重を波の上に敷き、その上に下りた。するとその暴波は自然と凪て、御船は進むことができた。時に后は歌われて「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」と詠まれた。そして七日の後に、后の御櫛が海辺に流れ着いたので、御陵を作って納め置かれた。
 以上が『古事記』の流れだが、前記の如く景行帝と小碓尊の親子関係を除けば、記紀共にほぼ同じ内容となっており、まず大和から伊勢に出て、大神宮の倭姫命に挨拶した後、尾張を経て東海道を東へ進み、相模から海路上総へ渡る行程が見て取れる。史書では特に触れられていないが、恐らく伊勢から相模までの移動は陸路だと思われる。そしてこの東国平定に関しては、往路だけではなく復路もまたその順路が詳細に記録されているので、明らかに前の熊襲征伐とは異質の戦記であることが分かる。また焼津の所在地について、紀は駿河、記は相模としているが、これは別にどちらでも問題ないだろう。

東征復路(日本書紀

 更に『日本書紀』を読み進めると、弟橘姫の献身によって海を渡った日本武尊は、上総から移って陸奥に入った。時に大きな鏡を御船に掲げて、海路から葦浦を回り、玉浦を横に渡って蝦夷の境域に着いた。蝦夷の首長・島津神・国津神等は、竹水門に屯して防ごうとしたが、遥かに王船を視てその威勢を怖れ、心中とても勝てないことを察し、全ての弓矢を捨てて拝して言うには、「君の容姿を仰ぎ見れば、人に優れておられる。神であられるのか。御名を承りたい」と。尊が答えて「吾は是、現人神の子なり」と言うと、蝦夷等はすっかり畏まり、衣裳を捲し上げ波を分けて、王船を助けて岸に着けた。そして自ら縛に就いて服したのでその罪を赦し、その首長を俘として従わせた。
 日本武尊蝦夷を平らげて日高見から還ると、常陸を経て甲斐に到り、酒折宮に居られた。時に火を灯して食事をし、歌を作って従者に問いて言うには、「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と。従者は誰も答えられなかったが、火焚の者が御子の歌の後に続けて、「日日並べて 夜には九夜 日には十日を」と歌うと、その聡明さを褒めて厚く賞した。ここに尊が言うには、「蝦夷の悪しき人共は、尽く罪に服した。ただ信濃と越のみ、未だ王化に従わぬ」と。そこで甲斐から北の武蔵と上野を巡って西の碓日坂に着いた。尊は常に弟橘姫を忍ぶ情があり、碓日嶺に登り三度嘆いて「吾嬬はや」と言われた。そこで碓日嶺から東の諸国を号して「吾嬬国」と言う。
 ここで道を分けて吉備武彦を越に遣わし、その地形の険易や人民の向背を監察させた。日本武尊信濃へ進んだが、この国は山が高く谷は深く、青い嶽が遠く重なり、人は杖を使っても登り難い。岩は険しく坂は長く、高い峯は数え切れず、馬は足を止めて進まない。しかし尊は霞を分け、霧を凌いで山岳を渡って行った。やっと峯に着くと、疲れて山中で食事をした。すると山の神が皇子を苦しめようとして、白い鹿に化けて皇子の前に立った。皇子はこれを怪しみ、一個蒜を白鹿に向けて弾くと、それが眼に当たって鹿は死んだ。しかし皇子は忽ち道を見失って出口が分からなくなった。そこへ白い犬が来て皇子を導こうとしたので、その犬に従って行くと美濃に出ることができた。それまで信濃坂を渡る者は、神気を受けて病み臥す者が多かったが、尊が白鹿を殺した後にこの山を越える者は、蒜を噛んで人や牛馬に塗ると神気に当たらなくなったという。

東征復路(古事記

一方『古事記』によると、上総から蝦夷の地へ入った倭建命が、荒ぶる蝦夷等を言向け、また荒ぶる山河の神等を平和して、還り上ろうとした時、足柄の坂本まで到って、乾飯を食べようとしたところ、その坂の神が白い鹿に化けて現れた。そこで命が食い残した蒜の片端を持って投げ付けると、目に当たって鹿は死んだ。そしてその坂に登り立って、三度歎いて「吾妻はや」と言われた。故にその国を名付けて「吾豆麻」と言う。更にその国を越えて甲斐に出て、酒折宮に坐す時、歌って「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と詠まれた。すると火焚の翁が御歌に続いて、「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」と歌ったので、その翁を誉めて東の国造を賜ったという。その後に命は甲斐から科野を越え、科野の坂の神を言向けて尾張に還り来った。
 こうして読み比べてみると、記紀共に上総から陸奥に進んで蝦夷を平定した後、復路は関東を経て甲斐から信濃に到ったという点では一致している。『日本書紀』では上総から陸奥までの移動を海路としており、要は内房から安房を迂回して外房に出て、犬吠埼から常陸沖を船で北上した訳である。但し日本武尊一行を乗せた船団が、いかなる水軍によって構成されていたのかについては記載がない。また武力を用いずに蝦夷や現地の神々を服従させたという点も記紀で共通しており、これは初めから討伐が目的だった熊襲遠征と好対照を成している。ただ一方で尊に敵意を示した焼津の豪族や、白鹿に化けた信濃の神は殺しているので、或いは後年の豊臣政権や徳川幕府アイヌ人に対してそうであったように、当時の蝦夷に対する外交は基本的に和平優先だったのかも知れない。
 復路の行程については両書に若干の相違が見られ、『古事記』では足柄まで戻った倭建命が、そのまま甲斐から科野へ進み、科野から尾張へ還ったとするのに対して、『日本書紀』では甲斐に到った日本武尊が、一度東へ戻る形で甲斐から武蔵に抜け、武蔵から北の上野に進み、上野から碓氷峠を越えて信濃に入り、副将の吉備武彦を越に遣わしたとする。但し崇神帝の四道将軍と同じく、ここでも『古事記』に吉備氏派遣の一文はない。無論今となっては実際に日本武尊が取った進路など知る由もない訳だが、甲斐まで戻りながら一転して碓氷峠に向かうというのは流石に無理があると思われるので、恐らく尊自身は常陸から相模を経て甲斐に進み、副将の吉備氏を別動隊として武蔵から上野に回し、再び信濃で合流したという伝承が、史書の中で一つに纏められたのではあるまいか。

日本武尊薨去日本書紀

 東国平定の大任を全うして尾張まで戻って来た日本武尊だったが、何故か直には大和へ帰国しようとしなかった。『日本書紀』によると、尾張に還った日本武尊は、尾張氏の女の宮簀媛を娶り、久しく留まって月を経た。ここで近江の五十葺山に荒ぶる神があることを聞いて、剣を解いて宮簀媛の家に置き、徒歩で出向いた。胆吹山に着くと、山の神が大蛇に化けて道を塞いだ。尊は主神が大蛇に化けているとは知らずに、「この大蛇は、きっと荒ぶる神の使いであろう。主神を殺すことができれば、この使いなどは求むるに足らぬ」と言い、大蛇を跨いでなお進んで行った。時に山の神が雲を興して雹を降らせた。峯は霧で覆われ谷は暗くなり、行くべき道もなくなった。彷徨って歩いている所も分からなくなったが、霧を凌いで強行すると、どうにか出ることができた。しかし意識が朧気で酔ったかのようだった。そこで山の下の泉の畔に休んで、水を飲むとようやく心気が醒めた。故にその泉を名付けて居醒泉と言う。
 日本武尊はここで初めて病を得た。ようやく起きて尾張に帰ったが、宮簀媛の家には入らずに、伊勢に移って尾津に着いた。前に尊が東へ向かった歳に、尾津に停まって食事をしたが、その時に一剣を解いて松の下に置き、それを忘れたまま去ってしまった。今ここに到ってみると、その剣は猶そこにあった。それで尊は歌って「尾張に 直に向へる 一つ松あはれ 一つ松 人に有りせば 衣着せましを 太刀佩けましを」と詠まれた。能褒野まで来ると病が重くなった。そこで俘にした蝦夷等を神宮に献じた。吉備武彦を朝廷に遣わして、神恩と皇威により東夷を征したことを天皇に奏上し、能褒野で崩じた。時に三十歳。
 小碓尊薨去の報せを聞いた景行帝は、安らかに眠れず、食べてもその味がなく、昼夜噎び泣き、胸を打って悲しんだ。そして群卿に詔し百僚に命じて能褒野の陵に葬らせた。時に日本武尊は白鳥となって、大和を目指して飛んで行った。群卿等がその棺を開いて見てみると、衣だけが空しく残って屍はなかった。そこで使者を遣わして白鳥を追い求めると、大和の琴弾原に停まったので、その地に陵を作った。白鳥はまた飛んで河内に到り、旧市邑に留まったので、またその地に陵を作った。故に朱鷺の人は、三つの陵を名付けて白鳥陵と言う。
 尊が神宮に献上した蝦夷等は、昼夜喧しく騒いで出入りにも礼がなかったため、倭姫命は「この蝦夷等は神宮に近づくべからず」と言い、朝廷に進上した。そこで御諸山の傍に置いたところ、幾時も経たぬうちに神山の木を伐ったり、里に叫び声を上げて村人を脅かしたりした。天皇がこれを聞かれて、群卿に詔して言うには、「かの神山の傍に侍らせている蝦夷は、元より人に非ざる心があり、中つ国には住ましめ難い。故にその願うままに従い、遠つ国に移すがよい」と。これが播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波など五国の佐伯部の祖である。

倭建命の薨去古事記

 一方『古事記』によると、尾張に帰った倭建命は、前に契りを交した美夜受比売の家に入った。そして御刀の草薙剣を美夜受比売の家に置いて、伊吹山の神を取りに行かれた。「この山の神は素手で直に取ろう」と詔してその山に登ると、牛のような大きさの白猪に出逢った。尊は言揚げして「この白猪は神の使者である。今殺さずとも還る時に殺そう」と言い、そのまま登って行くと、神は大氷雨を降らせて命を打ち惑わせた。山を下りて玉倉部の清水で休息すると、心気がやや寤めた。故にその清水を名付けて居寤の清水と言う。
 その地を発って當藝野まで来た時、倭建命は歩くのも苦しくなり、「吾が心は常に空をも翔け行かんと思う。然るに今吾が足は歩むを得ず」と言われた。その地からやや少し行くと、疲れが甚だしくなり、杖を突いてゆっくりと歩かれた。尾津の一つ松の許まで来ると、前にその地で食事をした時に置き忘れた太刀が、失われることなく猶そこにあった。命は御歌を詠まれて、「尾張に 直に向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 太刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 あせを」と歌われた。三重村まで来た時、また「吾が足は三重の勾の如くいと疲れたり」と言われた。故にその地を名付けて三重と言う。
 能煩野まで来た時、国を思って「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」「命の 全けむ人は 疊薦 平群の山の 熊白檮が葉を 髺華に插せ その子」と歌われた。これは国しのび歌である。(因みに『日本書紀』景行紀では、この二首は日向で景行帝が詠んだ歌とする)そして病が甚だ急になった時、「嬢子の 床の邊に 我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや」と歌われ、歌い終えると倭建命は崩じた。薨去を伝える急使が立てられ、大和に居た小碓命の后や御子等が下り来て御陵を作った。命の魂は大きな白鳥となって海に向かって飛んで行き、やがて河内の志幾に留まった。そこでその地に御陵を作って鎮め坐さしめた。それを名付けて白鳥の御陵と言う。

早過ぎる死

 以上ここまで読み比べてみても、やはり両書の内容はほぼ同じである。即ち尾張に帰って来た日本武尊は、宮簀媛を娶ってその家に入り、そこに草薙剣を置いたまま伊吹山の荒ぶる神を討ちに行った。まさか丸腰だった訳ではあるまいが、なぜ倭姫から賜った草薙剣を佩いて行かなかったのかは不明である。近江の伊吹山は、近江と美濃の国境に跨る山で、山頂は不破関の北北西に当たる。しかし山中で雹の降る悪天候に遭った尊は、それを機に体調を崩し、遂には歩くのも困難になった。つまり尾張に戻った時点では健康だったのであり、遠征の途中で発病した訳ではないが、或いは長旅の疲労もあったのだろう。
 症状が悪化し始めた日本武尊は、宮簀媛の家には戻らずに、美濃からそのまま南下して尾津に向かい、三重を経て能褒野まで辿り着いた。能褒野から大和までは、健常な成人男性ならば三日の距離である。伊吹山から大和を目指すだけならば、琵琶湖の東岸を回って山背を抜けた方が遥かに速いが、当時の大和と美濃を結ぶ行路は伊勢を通るのが本道だったので、不慣れな近道をせず素直に来た道を戻ろうとしたのだろう。そもそも近江と美濃の国境から目と鼻の先にある伊吹山に、討伐の対象となるような荒ぶる神がいること自体、未だこの街道が整備されていなかったことを物語っており、やはり当時は伊勢から大和への山越えが最も安全な道中だった訳である。
 一つ不可解なのは、東国から尾張に戻った日本武尊が、大和へ凱旋せずにそのまま尾張に留まっていることで、一般的に考えられる要因としては、かつて景行帝が日向の高屋宮に数年間滞在した例もあるように、濃尾平野周辺の鎮定のために尊自ら尾張に駐屯していたか、さもなくば何らかの事情で帰国したくなかったかであろう。もし前者であれば伊吹山進攻もその任務の一環としてのものであろうし、後者であれば親子の不和が現実味を帯びてくる訳である。いずれにせよ尾張で腰を据えずに一路帰朝していれば、或いは不要不急の伊吹山などに赴かなければ、(仮に父君から疎まれていようと)いずれ天皇の地位が確約されていたと思われるだけに、返す返すも不憫ではある。ただ海を臨んでは飛んで渡れると大言壮語したり、伊吹山の神を素手で取ると豪語したり、行く先々で女を作ったりと、後の源義経にも通ずる人間性を見て取れる所もあるので、その点ばかりは何とも言えないのだが。
 能褒野での薨去に関しても、記紀では全く別の視点から語られており、『日本書紀』では死期を悟った日本武尊が吉備武彦を朝廷に遣わし、東征を完了したことと、天命の無念を景行帝に奏上し、天皇の命で陵が作られたとするに対して、『古事記』では急使が立てられたのは尊の死後であり、それを受けて后や子等が下向して御陵を作ったとする。正史の『日本書紀』は漢籍の引用による脚色が多々指摘されているのに加えて、意図的に整合性を操作しているのが明白ではあるものの、景行帝が小碓尊を愛していたという点では一貫しており、尊が天皇から疎まれていたという筋書きの『古事記』では、御陵の造営にも朝廷や景行帝は無関係という立場を取っている。いずれにせよ史上初の日本統一という大事業の立役者である小碓尊が、志半ばにして世を去ってしまったことに変りはない。

日本武尊の東征とは

 こうして読み終えてみると、記紀に伝わる日本武尊の東国戦記というのは、我が子の早過ぎる死を嘆いた景行帝の「何の禍か何の罪か」という言葉にもあるように、全編を通して因果と応報という要素によって構成されていることが分かる。そしてこれは歴史だから、当然まず結果という応報が先にあり、そこから過去に遡って因果を求めるという形になる。例えば後世の『忠臣蔵』において、まず浅野内匠頭による殿中での刃傷沙汰という事件が先にあり、そこに到るまでの経緯を探る形で様々な講談が作られたように、日本武尊の場合は、まず皇位継承権を持つ英雄が遠征の陣中に病没したという悲劇があり、記紀で真逆の描写となっている実父景行帝との関係にしても、全てはその結果を招いた原因を求めるところから話が始まっている訳である。
 そしてそれは日本武尊の代名詞ともなっている草薙剣についても同じで、駿河(記では相模)で現地の賊に欺かれて炎に囲まれた時、尊を救ったのは草薙剣だった。実際には周りの草を刈り払って迫り来る火を防ぎ、火打石で向火を放って難を逃れたのだが、この故事が草薙剣の語源とされていることに変りはない。逆にそれまで健康だった日本武尊が俄に罹患した伊吹登山では、何故か草薙剣を寵姫の家に置いたままだった。即ち草薙剣を帯びていなかったが故に、山神の気を祓えなかったのだという訳である。そして草薙剣こと天叢雲剣は、かつて素戔嗚尊天照大神に献上し、その後は大神と共に神宮で祀られていた太刀なので、或いは後の壬申の乱と同様に、この東国平定もまた天照大神の加護だったということになる。
 以上が記紀に伝える日本武尊の東征記だが、この伝記には一つ不可思議な点があり、大和を出発してからの小碓尊の行程について、時事の年月が全く記載されていないのである。無論今から千数百年以上前の出来事だから、個々の出来事に対する正確な年月など分からなくて当り前という意見もあるだろうが、初めから時系列という意識のない『古事記』ならばともかく、他所では凡そ史実と掛け離れた年月を割り振ることで史書としての体裁を取り繕っている『日本書紀』が、熊襲征伐以上の見せ場である筈の東国平定については、なぜか終始年月に言及していないのも妙な話ではある。唯一手掛かりになりそうな記録としては、日本武尊が白鳥となって天高く飛び発った後、その功名を伝えようと武部を定めたのだが、それは天皇が即位して四十三年だったという。