史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

三韓征伐(好太王と倭人)

高句麗好太王

 『日本書紀』の言う皇太后の摂政期が六十余年にも及んだとか、彼女が百歳まで生きたなどという話が虚構であることは誰もが理解しているし、神功皇后の伝記が日本国内で完結している分にはそれでも問題ない。しかし新羅征伐や百済との交流のように、他国との接点を骨子に据えるのであれば、やはり相手側もしくは第三者の史料と照合させることによって、その事実関係を検証しなければならない。そこで朝鮮半島や大陸の文献の中から、この時代の日朝関係を記録した箇所を探してみると、唯一個々の時事の年代まで信用できる史料として、高句麗好太王の石碑がある。
 第十九代の高句麗王である好太王は、異民族からの侵攻等で衰退していた国家を再建し、領土を拡大するなどして国威を復活させた中興の大王で、その諡号から広開土王とも称され、用いた年号から永楽大王とも呼ばれる。現在吉林省通化市に立つ石碑は、碑文によると王の死から間もない甲寅の年(西暦四一四年)に、後嗣の長寿王が父王の業績を称えるために建立したもので、長くその存在すら忘れ去られたまま草木に埋もれていたが、一八八〇年(光緒六年・明治十三年)になって現地の農民により発見された。好太王を礼賛するために建てられた石碑なので、当然その内容は割り引いて考えなければならないし、全一千八百余字のうち約二百字は風化によって解読不能となっているが、当時の半島情勢を知る上で最も貴重な史料の一つであることに変りはない。

高句麗から見た倭の朝鮮進出と百済

 好太王碑に刻まれた記録の中で、四世紀後半から五世紀初頭の日本と朝鮮半島の関係を探る手掛りになると思われる箇所は三つあり、いずれも百済が絡んでいる。それを年代順に見て行くと、まず永楽六年(三九六年)に好太王は自ら兵を率いて百済に攻め入るのだが、それに前置きする形で次のように記されている。「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭辛卯年以来渡海破百済□□新羅以為臣民(□は風化により解読不可)」「百残(百済のこと)と新羅は旧これ(高句麗の)属民にして、由来朝貢す。而るに倭が辛卯の年を以て来りて海を渡り、百済・□□・新羅を破り(或いは百済を破り新羅を□□し)、以て臣民と為す」云々。今も解釈には諸説あるものの、素直に読めば以上のように和訳される。
 この辛卯の年(三九一年)というのは、碑文によると好太王の即位の年に当たり(『三国史記』等では翌壬辰の年の即位とする)、要約すると「百済新羅はもと高句麗の属国であり、我が国に朝貢していたのだが、王が即位した年から倭が海を渡ってやって来て、百済新羅を破って臣従させてしまった」という意味になる。原文の「百残□□□羅」も解釈の分かれる箇所だが、いずれにせよ大勢には影響のない範囲であろう。そしてこの好太王碑が史料として極めて貴重なのは、『日本書紀』や『三国史記』のような正史とされる史書が遥か後世の編纂なのに対して、好太王の碑文はほぼ実時代を記録しているということであり、即位年のように他の史料との間で多少の差異はあるにせよ、そこに刻まれた年代はほぼ信用できると言ってよい。
 ここで高句麗側が主張しているように、果して百済新羅高句麗の属国だったかどうかはともかくとして、それぞれ馬韓辰韓を統一して間もない頃の百済新羅が、高句麗の介入を封じるために和平的な遣使をしていたのだろう。但しそれは高句麗側からすれば、百済新羅の示す誠意の見返りとして両国への攻撃を控える、つまり高句麗が両国の独立を認めるという形になるので、必然的に外交上は主従に近い上下関係が生じる。それが好太王前夜の朝鮮半島に於ける国際秩序だった訳だが、倭が海を渡って百済新羅を臣従させたことによって、その力の均衡が崩れてしまったのである。そしてこれが新たな火種を生むことになった。
 碑文は次のように続ける。「以六年丙申王躬率水軍討利殘國」「以て六年丙申、王自ら水軍を率いて残国(済国)を討つ」云々。そしてこの後に緒戦で高句麗軍が攻略したという数十の城を列挙する。王碑の記録だけを読むと、倭が海を渡って百済新羅を従えた五年後に、高句麗が突然百済に侵攻したようにも見えるが、実際にはその間も両国は常に臨戦状態にあり、国境付近での紛争が絶えなかった。特に好太王以前には、百済の方が高句麗領を侵食していたこともあり、旧領を奪回するために高句麗が攻勢に転じたと見ることもできる。また好太王は弱冠十八歳で王位を継承していたので、若く野心的な君主が即位から数年を経てようやく親征を興せるようになったという面もあったろう。
 ここで列挙された城を見る限り、既にこの時点で漢江以北は殆ど高句麗に占領されたことになる。更に碑文は「賊不服気、敢出百戦、王威赫怒渡阿利水遣刺迫城」云々と続く。「賊」とあるのは百済のことで、既に北の数十城を落とされ、高句麗軍が漢江まで到ったというのに、百済服従しようとせず、逆に出撃して徹底抗戦の構えを見せたため、これに好太王が怒り、渡河して百済の王都に迫った。高句麗内陸国なので、好太王が率いて来た水軍というのも、倭の水軍のような所謂海軍ではなく、百済との戦争で最大の障壁となる漢江での攻防と、大軍の渡河を想定したものだったと思われる。
 困逼した百済王が、男女の生白千人と細布千匝を献じ、自ら「今より以後、永く奴客と為らん」と誓ったので、好太王はこれを赦し、百済王と大臣から人質を取って凱旋した。この戦役で高句麗は、百済から五十八の城と七百の村を得る戦果を挙げたという。以上が好太王碑に見る倭と高句麗の最初の接点だが、この時の両国間の接触はあくまで間接的なもので、南北双方から攻撃を受けた百済こそはいい迷惑だったと言ってよい。ただここで高句麗と城下の盟を交したにも拘らず(否むしろそうであるが故に)、その後も一貫して百済の親倭外交が覆ることはなく、やがてこれが次の戦争を生むことになる。

新羅を巡る倭と高句麗の争い

 三年後の永楽九年(三九九年)について碑文は次のように記す。「九年己亥、百残違誓与倭和通、王巡下平穰、而新羅遣使白王云、倭人満其国境、潰破城池、以奴客為民、帰王請命」「九年己亥、百残誓に違い倭と和通す。王平穰へ巡下す。而して新羅使を遣わし王に白して云く、倭人其の国境に満ち、城池を潰破し、以て奴客(新羅王)を民と為す。王に帰し命を請う」と。その言わんとするところについては特に説明の必要もないだろう。百済が先年の盟に反して倭と通じたので、これを糺すべく好太王が平穰へ巡下したところ、新羅が使者を遣わして言うには、倭人が国境に満ちており、城池は破壊されて、王は民にされてしまったという。そこで好太王に救援を求めて来たのである。
 「誓に違い倭と和通す」とあることから、恐らく先年の盟の際に、以後は高句麗を唯一の宗主国として接し、倭には臣従しないことを約していたのだろう。にも拘らず百済が倭に通じたというだけで、好太王自ら平穰まで赴いたということは、恐らく百済王が倭へ人質を送るなり王女を嫁がせるなりして、再び倭と同盟を結ぼうという動きを見せたものと思われる。そこで平穰へ巡下した好太王に対し、百済が使者を送って釈明をすれば善し、それがなければ戦争も辞さないという構えを見せたところ、新羅が使者を遣わして救援を求めて来た訳である。「以て奴客を民と為す」については、倭が新羅王を臣下にしたとも、平民に落したとも受け取れるが、どちらであろうと大差あるまい。或いは神功紀異伝に「一に云はく、新羅の王を禽獲にして云々」とあるのは、これを語ったものかも知れない。
 これを受けた好太王は、高句麗に対する新羅の忠誠を称え、その訴えを聞き入れることを告げて使者を還し、翌十年庚子、歩騎五万の兵を派遣して、新羅の救援に行かせた。「教遣歩騎五萬、往救新羅」とあるので、これを読む限り好太王は親征していない。碑文ではここから高句麗軍と倭や弁韓諸国との戦闘が、かなりの文字数を割いて語られて行くのだが、石碑の全面を通して最も風化の激しい箇所なので、残念ながら多くの文字が判別不能となっている。その中でも解読可能な箇所を拾い合せて大まかな流れを追ってみると、ほぼ次のようなことが書かれている。
 新羅の王城へ至ると、その中は倭人が満ちていた。高句麗軍が城を包囲すると、倭軍が撤退したので、それを追って任那加羅まで至り、(現地の)城を帰服させた。(しかしその間に)安羅人の戍兵が新羅の王城を落してしまった云々。続いて碑文にはその後の戦況も綴られているのだが、風化のため殆ど全体像を読み取ることができない。従って可能な範囲でその後の経過を追ってみると、特に倭連合軍が戦況を盛り返すことも、逆に高句麗がこれ以上の戦果を挙げることもなく、倭人新羅から追い出して、任那加羅まで追撃した後、高句麗軍は帰還したようである。無論事後処理もせずにただ撤収したのでは、再び倭軍が新羅を占領するだけのことなので、倭や安羅との間に何らかの終戦協定が結ばれたのは間違いないが、それ等については伝わっていない。
 もともと高句麗にとってこの戦役は、好太王に帰服した新羅を救援するための動員なので、それを達成した時点で既に義理は果しており、敢てそれ以上のことをしてやる必要もなかった。またこの戦闘に百済軍が登場しないのは、平穰で好太王が睨みを利かせていたため、北の防衛に注力していたものと思われる。もし百済が北方から遠征軍の背後に回り、南方の倭や安羅と挟撃する形に持って行ければ、高句麗兵を殲滅できたかも知れないが、好太王がそれをさせなかったのだろう。そして本来これで終る筈だった倭と高句麗の因縁が、何故かこの四年後に再発することになる。
 新羅を巡るこの戦争は、終ってみれば勝者など一人も居なかった。諸国の中で最も被害が大きかったのは、言うまでもなく国土が戦場になった新羅だが、そもそも倭国から侵攻を受けたこと自体、新羅の方にも非がなかったとは言い切れず、新羅が一方的な被害者という訳でもない。遠路その新羅を解放した高句麗にしても、この戦争で高句麗自身が得たものなど何もなく、同じく遠路海を渡って新羅を占拠していた倭国は、本来何の関係もない高句麗の介入によって、その貴重な戦果を手放す羽目になった。むしろ見方によっては最終的に新羅だけが勝利を得たと言えなくもない。

倭軍の高句麗遠征と失敗

 そして十四年(四〇四年)甲辰、倭が条約を破り、帯方郡へ侵入したため、好太王は自ら兵を率い、平穰を出て迎え討った。誰もが知る倭と高句麗の合戦だが、実はここも風化による空白の多い箇所なので、上記のような凡その流れしか読み取れない。最後は「倭寇潰敗、斬殺無数」の八文字で結ばれており、高句麗の大勝だったという。倭から帯方郡へ至るには、陸路百済領内を縦断するか、海路百済沖を渡航するかの二通りの方法が考えられるが、倭人が陸路を選択するとは思えず、文中に「連船」の二字も見えることから、船団を組んで江華湾へ入ったものと推測される。そして魏と邪馬台の交流が始まる以前から、黄海を南北に往来していた倭人にしてみれば、航路だけなら未知なる海域という訳でもなかったろう。
 むしろ不可解なのは何故倭軍が突然高句麗まで遠征したのかということだ。実のところ当時の倭人にとって、遥か北方の高句麗など正直どうでもいい存在で、外交上の最優先課題は旧弁韓地域に於ける覇権の確保と新羅属領化だった筈である。しかし新羅高句麗の傘下に入ってしまったことと、旧弁韓諸国の中からも高句麗に通じる者が出てきたことで、それまで築き上げてきた半島南部の権益が一気に縮小したのは間違いない。そしてこの状態を放置しておくと、かつての新羅征伐さえも水泡に帰してしまうから、倭としては到底容認できるものではなかったろう。恐らく倭の世論が「高句麗憎し」となっていたのは想像できるが(無論その一方で半島への関与自体に反対する者達も一定数居たろうが)、わざわざ帯方郡まで出兵して、仮に局地戦で一時的に勝利したところで、強大な高句麗を屈服させられる筈もなく、それは高句麗もまた海を渡って倭国を征服できないのと同じだった。
 そこで帯方郡出兵の動機については、各分野から様々な見解が示されており、対外的に見れば、緒戦で高句麗に打撃を与えて南方への介入を封じ、その間に新羅と旧弁韓領での地位を復活させようとしたとも、倭から新羅を解放したことによって高句麗の影響力が強化されたように、倭もまた高句麗から旧百済領を奪回することで威信の回復を図ったとも、国内的に見れば、敗戦に対する批判や不満の捌け口を海外に向けざるを得なかったとも、不甲斐ない撤退をした将兵の名誉を挽回するためだったとも、「高句麗討つべし」という主戦派の声を抑えられなかったとも言われるが、当然ながら全て憶測に過ぎない。或いはそれ等が皆複雑に入り混じっていたのだろう。
 尤もこれ等はあくまで大和朝廷という中央政府を主軸に置いた話で、恐らく気長足姫とその取巻きにとっては、そんな政治云々よりも遥かに単純な動機だったと思われる。もともと皇后が陣没した天皇の葬儀もせずに遠く新羅にまで出兵したのは、「宝の国を与える」という神のお告げを口実にしている訳だから、もし現実の新羅が大和に背いて高句麗に与するようなことになれば、それこそ神託そのものの信憑性が崩壊してしまう。同じく彼女が亡き夫との間に儲けた(と称する)幼い我が子を抱えて国権の座に留まっていられるのも、新羅の従属化という目に見える形の成功が神託の正当性を裏付けていたからで、なればこそ気長足姫にとって高句麗からの新羅奪回はまさに死活問題だった訳である
 因みに帯方郡に侵入したと記されているのは倭だけで、百済は登場しない。つまり碑文に従えば、これは倭と百済の合同作戦ではなく、あくまで倭の単独行動だったことになる。また好太王碑には終始「倭王」や「倭国王」といった単語も見当たらないので、果してこれは本当に大和朝廷高句麗による国家対国家の戦争だったのか、それとも半島南部に派遣されていた部隊による単独の戦闘だったのかさえ定かではなく、一応ここまでは国家間の戦争と言う前提で話を進めてきたが、実際にはそれも含めて仮説の一つに過ぎない訳である。そして誰もが知る通り、この二度に渡る高句麗との戦争は、何故か日本側の史書には一切記録がない。従来その理由については、敗戦だったが故に記録から抹消されたのではないかとも言われてきたが、単に国家間の戦争ではなかったが故に記録されなかった可能性も否定はできない。