史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

三韓征伐(皇后と半島外交)

神功紀に見る皇后の治世(前半部)

 『日本書紀』の年号によると、仲哀帝が崩じたのは在位九年の二月のことで、気長足姫は同年十月に新羅へ出兵し、十二月に筑紫で男子を出産すると、翌年二月に先帝の遺骸と共に豊浦を発ち、翌三月には忍熊王を討って王都に入った。従ってこの年を以て神功皇后の摂政元年とする。尤もこれが西暦で何年に当たるかについては未だに解答はない。そして翌二年の十一月に先帝を河内国の長野陵に葬ると、翌三年には誉田別皇子を太子に立て、大和の磐余に新都を造営したという。
 摂政五年、新羅王が汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣わして朝貢した。これには先に人質となっていた微叱許智伐旱を取り返そうという本心があった。そして許智伐旱に欺くよう教えて言わせるには、「使者の汙礼斯伐や毛麻利叱智等が臣に告げて言うには、我が王は臣が久しく帰らないので、尽く臣の妻子を没収して官奴にしたと言う。冀わくは暫く本土に帰って虚実を知らんことを請う」と。皇太后はこれを赦し、葛城襲津彦を副えて遣わした。共に対馬に到って鉏海に宿した時、毛麻利叱智等は密かに船と水手を手配し、微叱伐旱を乗せて新羅へ逃れさせた。欺かれたことを知った襲津彦は、三人の使者を捕えて檻に入れ、火を点けて焼き殺した。また新羅へ渡って草羅城を陥落させて還ったという。これとよく似た話が現存する朝鮮側の史料の中にも見出せることから、その出典を他国の史書に求める意見もあるが、ここでは立ち入らない。
 続いて神功紀では、摂政十三年に武内宿禰を皇太子に従わせて、角賀の笥飯大神に参拝させた話を伝える。これと同じ話は『古事記』にも収録されていて、どちらの書でも皇太后は太子が帰るのを待って宴会を催し、その席で皇太后宿禰が詠んだという酒楽の歌を載せるなど、この敦賀詣でが御子にとって極めて重要な行事であったことを窺わせる。また『古事記』では、太子が禊をしようと高志に赴き、角鹿に仮宮を造って滞在していた時、同地に坐す伊奢沙和気大神と名を交換したという話を伝えるが、『日本書紀』ではこれを応神紀に挿れている。
 『古事記』は御子の角鹿詣でを以て神功皇后の伝記を終えているが、一方の『日本書紀』はその後も数十年に渡って皇太后の話題が続く。尤も次に集録されているのは摂政四十六年の記事なので、新羅の使者の来朝から数えると何とも不自然な四十年もの空白がある。また本来これは気長足姫の治績ではないのだが、その間の摂政三十九年と翌四十年、そして四十三年の三回に渡り、「魏志に曰く」として倭人伝から引用した記事を掲載している。それによると摂政三十九年は倭の女王が大夫難斗米等を遣わした明帝の景初三年(『魏志』では景初二年)に当たり、翌四十年と四十三年はそれぞれ魏の正始元年と同四年に当たるという。しかし邪馬台国卑弥呼は西暦三世紀中頃の女王であり、気長足姫は四世紀後半から五世紀初頭の皇族なので、当然ながら両者の生きた時代は全く合致しない。恐らく欽明帝以前の天皇の年齢に従って素直に遡ると、そうした年表が出来上がってしまうのかも知れないが、現実にはあり得ない話である。

神功紀に見る皇后の治世(後半部)

 そして長い空白の時を経た摂政四十六年、斯摩宿禰を卓淳国へ遣わした。卓淳は大邱にあったとされる国で、新羅の首都慶州からは目と鼻の先になる。『日本書紀』によると、斯摩宿禰の来訪に先立ち、百済人の久氐・弥州流・莫古の三人が卓淳国を訪れて、国王に大和との交流を説いたという。恐らく百済が橋渡し役となって事前に根回しをしておいてくれたのだろう。そこで宿禰は従者の爾浪移と卓淳人の過去の二人を百済へ遣わして王を慰労したところ、百済王はこれを喜んで二人を厚く遇し、爾浪移に絹や鉄を賜り、使者に託して様々な珍しい物を献じたという。
 翌四十七年、百済王は久氐・弥州流・莫古の三人を使者にして朝貢させた。時に新羅の調使も久氐等と共に詣で来た。皇太后と太子誉田別尊は大いに喜び、「先王の望んでおられた所の国人が今来朝したか。天皇が世におられないのは痛ましい」と言ったので、群臣は皆涙を流さぬ者はなかったという。この一文を読む限り、朝鮮との交流を望んでいたのは皇后や大臣ではなく、仲哀帝本人であったことを『日本書紀』も暗に認めている。ただそうなると新羅出兵の口実となっている神託との間に矛盾が生じて来る訳だが、そもそもこの時代の日本人が新羅百済の存在を知らない筈がないので、やはり仲哀帝熊襲征伐や皇后の朝鮮出兵の動機については、当時の国際情勢とも絡める形で今一度見直す必要があるだろう。
 二国の貢物を検査してみると、新羅の貢物は珍しい物が甚だ多く、百済の貢物は少ない上に粗末な物ばかりだった。そこで久氐等に「百済の貢物が新羅に及ばないのは何故か」と問うと、答えて言うには、道に迷って新羅領へ入ってしまったところを捕えられ、新羅人は我が国の貢物を奪って己が貢物とし、彼国の粗末な品を以て我が国の貢物とし、もしこれを漏らせば帰国後に殺すと言われ、已むなくこれに従い天朝(大和)に達するを得たと言う。皇太后百済の貢物を穢したとして新羅の使者を責めた。この「卑怯でずる賢い・嘘を吐く・誤魔化す・人を貶める」といった性質と、それに基づく言動は、その後も新羅人の特徴として日本側の史料に度々描かれており、多くの日本人が現代の韓国人にも懐く印象に鑑みると、強ちこれが新羅に対する憎しみや偏見とばかりは言えない面もある。
 四十九年、荒田別と鹿我別を将軍として、久氐等と共に兵を整えて卓淳国へ渡り、まさに新羅を襲おうとした。そして百済の将軍・木羅斤資等と共に新羅を撃ち破り、比自体・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定した。更に兵を移して西の古奚津に至り、南蛮の耽羅を屠って百済に与えた。百済王と王子もまた兵を率いてやって来ると、比利・辟中・布弥支・半古の四村は自然に降伏した。百済の父子と荒田別・木羅斤資等は意流村で合流し、相見て歓喜した。千熊長彦と百済王は共に百済へ行って誓約を交わした。百済王は千種長彦を王都に招いて厚く礼遇し、また久氐等を副えて送らせたという。但し漢文の『日本書紀』は、他の多くの古い漢籍同様に主語の欠落した文章が多く、受身や使役の用法も日本語とは異なるので、文意を明確にできないような箇所も散見されるのだが、大まかな流れを知る分には問題ないと思われる。
 翌五十年、まず荒田別等が帰国し、次いで千熊長彦や久氐等が百済から戻った。皇太后はこれを喜び久氐に問いて言うには、「海の西の諸々の国を既に汝の国に与えた。今何事があってまた再び来たのか」と。久氐が答えて言うには、天朝の恩恵は我が国の隅々にまで及んでおり、我が王は溢れる喜びを抑え切れずにいる。そこで還る使者を送って誠意を表したのだと言う。また「万世に至るまで訪朝を絶やすことはない」と言ったので、皇太后は勅して「汝は善いことを言う。それは我が願うところである」と言い、多沙城を増し与えて、往還の道の駅とした。
 翌五十一年、百済王はまた久氐を遣わして朝貢した。皇太后が太子と武内宿禰に語って言うには、「我が親交する百済国は、天の賜わる所であり、人為によるものではない。未だ有りもしない美しい物や珍しい物を、時を置かず常に参り来て献上する。我はこの誠を省みて常に喜んでいる。我が在る時の如くに、敦く恩恵を加えよ」と。この年に千熊長彦を久氐等に副えて百済へ遣わし、両国の末永い友好を望む旨を伝えると、翌五十二年に久氐等が千熊長彦に従って参り来て、七枝刀や七子鏡など種々の重宝を献じた。これ以後は毎年相継いで朝貢したという。

百済記と日本書紀

 続いて神功紀では、摂政五十五年に百済の肖古王が薨じたこと、翌五十六年に王子の貴須が王となったこと、六十二年に新羅朝貢しなかったので、襲津彦を遣わして新羅を撃たせたことを記している。尤も六十二年の新羅再々征に関しては、「百済記に曰く」と前置きした上で、「壬午の年に、新羅が貴国に奉らず。貴国は沙至比跪を遣わして討たしむ云々」とあるので、その前の百済王位の継承も含めて、これ等は百済史書から引用した話かも知れない。そして葛城襲津彦を『百済記』の中の沙至比跪に比定している訳だが、元より両者が同一人物であるという確証はない。
 『百済記』は、『百済新撰』『百済本記』と合せて百済三書と称される同国の史書の一つだが、三書の原本はいずれも現存しておらず、朝鮮国内でも早くに散逸しているため、今では日本側の史書に引用された箇所が逸文として残るばかりとなっている。因みに三書の一つである『百済本記』と、『三国史記』に収められた『百済本紀』は、全くの別物である。そして他の東亜の史書同様に、百済三書の年代も干支で表されている訳だが、後発の『日本書紀』や『三国史記』がそうであるように、やはり古代の年表に関しては甚だ信憑性に欠ける。従って本来両国の史書の記録を照合する場合、まずは双方の史書の年代を正確に修正する作業が必要になる。しかしこれは相当な難題なので、万人が承服するような解答を得られるまでには、まだかなりの時間を要するだろう。
 三度目の新羅討伐に関しては、『日本書紀』には「襲津彦を遣して新羅を討たしむ」とあるだけで、『百済記』の引用では、沙至比跪を遣わして新羅を討たせたが、沙至比跪は新羅から送られた美女を納めて討とうとせず、逆に加羅を討って帰国しなかったとあるので、新羅との戦争には至っていないかも知れない。因みに襲津彦と加羅との関係については、応神紀十四年にも類似の話を伝えている。続いて『日本書紀』は、六十四年に百済の貴須王が薨じて枕流王が立ったこと、翌六十五年にその枕流王も薨じたが、王子阿花がまだ年若かったため、叔父の辰斯が王位を奪って立ったこと、翌六十六年が晋の武帝の秦初二年に当たり、この年に倭の女王が晋に貢献したとあること、六十九年に皇太后は百歳で崩じ、狭城盾列陵に葬ったことを記して、神功紀を終えている。