三帝の年表
さてここで試みに垂仁・成務・応神の三帝に関して、正史に記された即位直後の時事の中から、恐らく成務帝の治績ではないかと思われる記録だけを、その割り振られた帝紀を無視して年代順に並べてみると、次のようになる。まず冒頭の年月については、史書上の天皇が誰であるかに関係なく「即位何年何月」とし、個々の末尾に出典元の帝紀を記しておく。
即位元年
春一月、即位(全ての帝紀で共通)
即位二年
任那人の蘇那□叱智が「国に帰りたい」と申し出たのでこれを赦す。天皇は蘇那□叱智に敦く賞し、赤絹百匹を任那王に贈ったが、新羅人が道を遮ってこれらの品々を奪った。両国間の諍いはこの時に始まった(垂仁二年)
即位三年
春一月、武内宿禰を大臣とした(成務三年)
春三月、新羅の王子(天日槍?)が来朝した(垂仁三年)
冬十月、東の蝦夷が悉く朝貢した。その蝦夷を役して厩坂道を造らせた(応神三年)
冬十一月、各地の海人が騒いで命に従わず。大浜宿禰を海人の宰とした(応神三年)
即位四年
春二月、今後、国郡に長を立て、県邑に首を置くことを詔す(成務四年)
即位五年
秋八月、諸国に令して、海人部と山守部を定める(応神五年)
秋九月、諸国に令して、国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く(成務五年)
即位六年
春二月、近江国に幸して、菟道野で歌を詠む(応神六年)
即位七年
秋九月、高麗人(?)・百済人・任那人・新羅人が来朝した。武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を率いて池を作らせた。これを韓人池と言う(応神七年)
即位八年
春三月、百済人が来朝した(応神八年 ※百済記からの引用)
即位九年
夏四月、武内宿禰を筑紫に遣わして百姓を監察させる。武内宿禰の弟の甘美内宿禰が、天皇に兄の謀反を讒言する。探湯をして武内宿禰が勝つ(応神九年)
こうして見てみると、少なくとも応神紀に関して言えば、即位から十年頃までの記録は、ほぼ成務紀からの転載と考えてよい。ではなぜ成務帝の治績が、敢て応神紀に移殖されたのか、即ち史書から抹消されたのかと言えば、それこそは応神帝の実父が誰なのかという問題への回答に他ならない。しかし今は敢てそこには触れずに、引続き応神紀を読み進めて行きながら、史書の行間に封印された歴史の真実に迫ってみたいと思う。
応神紀の十年
応神十一年の冬十月、剣池・軽池・鹿垣池・廐坂池を造った。この年にある人が奏して言うには、「日向国に嬢女有り、名を髪長媛、諸県君牛諸井の娘なり。国色の秀者(国中で最も美しい人)なり」と。天皇は悦んで、心裏に召そうと思った。十三年の春三月に専使を遣わして髪長媛を召すと、秋九月に日向から参ったので、摂津国の桑津邑に置いた。皇子の大鷦鷯尊は髪長媛を見て、その容姿の美麗さに感動し、常に恋心を抱いていた。天皇は、大鷦鷯尊が髪長媛に想いを寄せているのを知って娶せようと思い、後宮で宴を催したとき、始めて髪長媛を呼んで宴席に侍らせ、大鷦鷯尊を差し招いて二人を引き合わせたという。
応神十四年春二月、百済王が縫衣工女を奉った。名を真毛津という。来目衣縫の祖である。またこの年に弓月君が百済から帰化した。奏上して言うには、「臣は、我が国の百二十県の人民を率いて来た。しかし新羅人が妨げるため、皆加羅国を前に留まっている」と。そこで葛城襲津彦を遣わして、弓月の人民を加羅に入れようとした。しかし三年たっても襲津彦は帰って来ない。十六年になって平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授け、詔して言うには、「襲津彦が久しく還らない。恐らく新羅が妨げるため滞っているのだろう。汝等は速やかに行って新羅を撃ち、その道を開け」と。木菟宿禰等が兵を進めて新羅の国境に臨むと、新羅王は怖れて罪に服した。よって弓月の人民を率い、襲津彦と共に帰還した。この弓月君とその一族は泰氏の祖だという。
十五年秋八月、百済王は阿直岐を遣わして良馬二頭を奉った。そこで大和の軽の坂上の厩で飼わせ、阿直岐に掌らせて養わせた。阿直岐はまた能く経書を読んだ。そこで太子の菟道稚郎子の師とした。天皇が阿直岐に「汝に勝る博士は有りや」と問うと、「王仁という者あり。これ秀れたり」と答えたので、上毛野君の祖の荒田別と巫別を百済に遣わして王仁を召させた。阿直岐は阿直岐史の祖である。十六年の春二月に王仁が来たので、菟道稚郎子の師とした。諸々の典籍を王仁に習い、通達せぬものは無かった。王仁は書首等の祖である。
十九年の冬十月、吉野宮に幸した。時に国樔人が参り来て、醴酒を献じて歌を詠んだ。そして歌が終ると口を打って仰いで笑った。今国樔が土産を献ずる時に、歌を終えて口を打ち仰いで笑うのは、上古の遺風である。国樔はその為人が甚だ淳朴で、常に山の菓を取って食らい、また蛙を煮て上味とする。その土地は、都より東南に山を隔てて、吉野川の上畔に居る。峯は嶮しく谷は深く、道は狭く急である。故に都から遠くはないのだが、もともと詣でることは希であった。しかしこれより以後は、しばしば参り来て土産を献じた。その土産とは栗・茸・鮎の類である。翌二十年秋九月、倭漢直の祖の阿知使主が、その子の都加使主、並びに党類十七県を率いて帰化した。
以上が応神紀十一年から二十年までの記録だが、ここに挙げた諸県君の女髪長媛が容姿麗美と聞こえたので召し出して大雀命に娶せた話と、国主の歌に関する話は、『古事記』にもほぼ同じ話が載せられている。確かに細かい所では両書の筋書きに多少の相違は見られるものの、大まかな流れとしては大差ないと言ってよい。また『古事記』では髪長比売の話に先立って、天皇が宇遅に幸した際に太子宇遅能和紀郎子の母矢河枝比売を召した話を載せるが、ここでは割愛する。また百済との交流や帰化人については、『古事記』では次のように記されている。
百済王が、牡馬一疋、牝馬一疋を阿知吉師に付けて奉った。阿知吉師は阿知史等の祖である。また横刀と大鏡を奉った。天皇が百済に「もし賢者があれば奉れ」と仰せられた。その命を受けて奉られた人、名を和邇吉師、論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻(千字文の成立は六世紀初頭の梁代とされており、応神帝の治世には存在しない筈なのだが、ここでは深く立ち入らない)をこの人に付けて献上した。この和邇吉師は文首等の祖である。また手人韓鍛、名は卓素、また呉服の西素二人を奉った。また秦造の祖、漢直の祖、また酒を醸すことを知る人、名は仁番、またの名を須須許理等が渡来した云々。
応神天皇の政治
こうして見てみると、当時の大和即ち応神帝が、国策として何を求めていたかが見えてくる。百済から優秀な学者を招き、太子の菟道稚郎子に率先して漢籍を学ばせたのは、国を挙げて当時の国際公用文字である漢字を習得しなければ、国際社会で不利になることを認識していたからだろう。特に応神帝在世の頃の大陸は五胡十六国時代であり、かつて北狄と蔑まれた異民族までが挙って漢化するなど、まさに東亜全体が漢文明によって覆い尽されようとしていた時期である。恐らく高句麗・百済・新羅の三国もまた、既に国家間の公文書には当り前のように漢文を使用していた筈で、東の果ての日本だけが漢文明に対して後進的だった感は否めない。
応神帝が呉服の機織工女を求めたのは有名な話で、応神紀では縫衣工女となっているが、織布縫製技術に於いても当時の漢文明が世界最高基準だったのは言うまでもない。そして応神帝が呉服の導入に注力したのも、当時の倭人の衣服が弥生時代と変らぬ質素な代物で、他国に比べて繊維業でも著しく後れを取っていたからだろう。尤も技術体系として見れば工女だけ呼んでも意味がない訳で、産業そのものを国内で自己完結させようとするならば、機械職人から製糸業者まで同時に輸入しなければ意味がない。逆に工女を招くだけで事足りたのであれば、古墳時代初期の日本の産業技術そのものは、決して低くない水準だったことの証明になる。因みに「呉服」と呼ばれているのは、当時の大陸が南北朝時代であり、漢民族の王朝が江南にあったからで、基本的には漢服やその製法と同義である。
『古事記』にある手人韓鍛というのは朝鮮鍛冶師のことで、恐らく当時の日本はまだ製鉄や鍛冶に於いても技術輸入国だったのだろう。古墳時代以前の日本では、鉄資源の多くを朝鮮半島からの輸入に頼っており、その最大の供給地が辰韓だったことは既述した。しかも辰韓には統一の王が存在せず、馬韓王の間接統治下で複数の自治小国が共存している状態だったから、鉄資源の欲しい周辺諸国にとっては何とも与しやすい地域だった。しかし新羅による辰韓の統一、更には高句麗の介入と、大和にとっては年を経るごとに旧辰韓領からの鉄の入手が困難になって行く一方で、国内での鉄器の需要は急増していた。従ってそうした状況に危機感を抱いた応神帝が、新羅を従属化して鉄を貢がせるという従来の方針を転換し、国内の生産量を増加させることで供給を安定させようと図ったのは想像に難くない。
秦氏と東漢(倭漢)氏という、その後も渡来系氏族の勢力を二分する集団が、どちらもほぼ時を同じくして応神朝期に渡来したという記述も記紀で一致している。『書記』では両氏共に眷属郎党や県民を伴っての移住とされていることから、これ等の背景には当時の大陸や朝鮮半島の情勢が反映されていると見てよいだろう。因みに秦氏と東漢氏は、その氏姓の示す通り朝鮮系ではなく漢人の後裔とされているが、これについては疑問を呈する向きも多い。確かに当時の大陸は五胡十六国の戦乱期だから、遊牧民の支配を逃れてきた漢人の集団が、安住の地を求めて日本に流れ着いた可能性もないとは言えないが、やはり地理的には朝鮮半島の戦乱に紛れて渡来した一派と見るのが妥当であろうか。
ここまで読んでみると、多少なりとも歴史好きの人ならば、応神朝期の日本の置かれた状況や国策が、安土桃山時代後半から江戸時代初期の頃に酷似していると気付くだろう。江戸幕府を開いた徳川家康が、学問の普及や世界最先端技術の導入に熱心だったのは有名な話だが、当然そこには国内の民度向上や殖産興業だけではなく、諸外国との交渉や戦争を見据えた判断があった。また家康は三河特産の木綿栽培を保護し、綿を織る女性の育成にも尽力するなど、繊維業によって三河の経済水準を向上させようとした。もともと三河の農地は隣国の尾張や美濃に比べて生産性が低く、徳川氏発祥の地である松平郷にしてからが米の採れない土地なのである。従って女性の内職によって付加価値の高い製品を作り出せる木綿産業は、労働効率という点でも極めて秀逸な業種だった。
吉備氏と高句麗
話を戻して応神紀を読み進めて行くと、二十二年の春三月、天皇は難波に行幸して大隅宮に居した。高台に登って遠望した時、妃の兄媛が侍っており、西を望んで大いに歎いた。兄媛は吉備臣の祖の御友別の妹である。天皇が「爾はどうしてそんなに嘆くのか」と問うと、兄媛は「近頃、妾は父母を想う心があり、西の方を望んだことで、覚えず嘆いてしまいました。冀わくはしばらく還って、親の顔を見たいものです」と答えた。天皇は兄媛の父母を想う心が篤いのを愛でて、「爾は両親に会わぬまま既に多くの年を経た。帰省したいと願うのは自明の理である」と言ってこれを聴き入れ、淡路の御原の海人を水手として吉備へ送った。
秋九月に天皇は淡路島で狩をした。この島は海に横たわって難波の西に在り、峯巌が入り混じって陵谷が相続き、芳草は盛んに茂って水はそそぐように流れる。鹿・鴨・雁などが多くその島にはいる。そのため天皇はしばしば遊ばれた。天皇は淡路から転じて吉備へ幸し、小豆島に遊んだ。また葉田の葦守宮に移った時、御友別が参り来て、その兄弟子孫を膳夫として饗応した。天皇は御友別が謹直に奉公する様子を見て悦び、吉備国を割いてその子等を封じた。(以下、御友別の三人の子と兄弟が、各々某県に封じられ、某臣の始祖になったという話と、織部を兄媛に賜ったという話が続く)その子孫は今も吉備の国に在り、これがその由縁である。
御友別と兄媛の兄妹は、日本武尊の東征にも参加した吉備武彦の子であり、景行朝の有力豪族吉備氏の出身である。恐らく御友別一家にまつわるこれ等の説話は、もともと帝紀や旧辞を出典とするような古事ではなく、自家の起源を語り継いだ吉備臣系諸氏の家伝の類が、書記編纂の際に応神紀の一部として採用されたものだろう。そして面白いのは、古くは吉備津彦を初めとして、こうした吉備氏の功績を示す説話の数々を収録しているのは『日本書紀』だけで、何故か『古事記』では殆ど取り上げられていないことである。当然そこには両書の成立に関わる何らかの理由もあるのだろうが、ここでは省く。
二十八年秋九月、高麗の王が使者を遣わして朝貢したが、その上表に「高麗王、日本国に教ふ」とあった。時に太子の菟道稚郎子はその表を読んで怒り、無礼であるとして高麗の使者を責め、その表を破り捨てた。(十年後の)三十七年春二月、阿知使主と都加使主を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。阿知使主等はまず高麗へ渡り、そこから呉へ行こうとした。しかし高麗へ到ったものの、更にその先の道を知らなかったため、道を知る者を高麗に乞うと、高麗王は久礼波と久礼志の二人を副えて嚮導とした。これによって呉に通ずるを得た。呉の王は、工女兄媛と弟媛、呉織と穴織、四人の婦女を与えた。
この応神紀二十八年と三十七年の二つの条文は、どちらも高麗が絡んだ外交の記録であり、ここで言う高麗とは高句麗のことである。では時の高句麗王は誰だったのかというと、西暦四〇四年に倭軍を撃退した好太王は、四一二年に三十九歳の若さで崩じているため、応神朝との外交を行った高句麗王は、恐らく好太王の子の長寿王であろう。高句麗からの上表に無礼な箇所があり、それを読んだ菟道稚郎子が怒って高句麗の使者を責めたという件は、彼が若い頃から阿直岐や王仁に師事して漢文に精通していたことを示すものである。
次に阿知使主と都加使主の父子が南朝に遣わされたものの、高句麗から先の道が分からず、高句麗王に嚮導を付けてもらったという話は、これが応神七年ならばともかく、同三十七年にもなって、国使一行にこの体たらくは有り得まい。『古事記』では大和に呉服の職人を送ったのは呉王ではなく百済王だとしており、『書記』でも百済王が縫衣工女を奉ったとあるが、応神帝が更に本場の技術者を望んだのかも知れない。よく似た話は家康にもあって、戦国時代後半に明から伝わった最先端の鉱山技術が普及したことにより、日本の金銀生産量は爆発的に増加したが、家康は更に高度な技術があると見込んでおり、当時の日本に来ていた西洋の宣教師や商人に対して、本国から鉱山技術者を送るよう度々要請していた。
古墳時代の幕開け
応神帝の治世の始まりは、景行帝によって日本列島が統一され、成務帝によって一度は郡県が制定されたものの、仲哀帝の筑紫親征によって再び大軍が動員され、神功皇后と大臣武内宿禰による数年にも及ぶ朝鮮への介入を受けてのものだった。従って即位した応神帝がまずしなければならなかったのは、対外的には高句麗や新羅との関係を修復して、朝鮮半島に残る兵士達を全員無事に帰還させることであり、内政的には長年負担を強いられてきた家臣連を国元へ帰して領地経営に専念させ、国民の生活を安定させることだった。この戦乱終結と戦後復興こそ応神帝の治世を貫く基本方針であり、記紀に従えばその在位期間を通して一度も干戈を動かしておらず、それは次代仁徳帝にもそのまま引き継がれていった。
但し前述の通り当時の日本は漢文明に対して後進国だったため、引続き諸外国と交流しながら先進文化を導入して行かなければならなかった。その一方で他国への介入は殆ど行われなくなり、大陸や半島の騒乱を横目に天下泰平の古墳時代が幕を開けることとなる。そして古今東西、自国からもなるべく他国に干渉せず、他国から干渉されることもなく、殆ど自国の都合だけで政策を決定し、国内の平和と繁栄を実現させるために必要なのは、その政治姿勢を他国にも認めさせるだけの力(武力に限らない)と、あらゆる国と対等に接し、かつ全ての国と適度な距離を保つ等間隔外交である。
これを見事なまでに体現したのが徳川家康であり、彼は終生誰に対しても信長や秀吉のように非礼な態度は取らず、主君や上位の者に対しても媚び諂うことなく、家臣や目下の相手に対しても常に礼儀正しかったが、それは相手が人ではなく国であっても同じだった。例えば彼は学問を好み武道を重んじたが、明を中華と仰いで遜ることもなければ、朝鮮を貧弱国と蔑むこともなかった。これは西洋諸国が相手でも変らず、カトリックの強国スペインであろうと、プロテスタントの新興国であるオランダやイギリスであろうと、西洋での情勢や各国間の利害に関係なく平等に扱い、それぞれの国王に対しても最大限の敬意を表した上で対等に接していた。
因みに応神天皇の治績を説明する文書の中には、天皇が「渡来人の助力を得て統治した」などという論説を、さも史実であるかのように吹聴する例を稀に見掛けるが、元より何ら根拠のない空論である。確かに応神帝の治世には眷属郎党を率いて渡来した複数の集団があり、その中には特定の分野で重用された人材がいたのは事実だろうが、そもそも新参の帰化人如きが政権の中枢に入れる筈もなく、それは信長から家康までの各政権下に於ける外国人の扱いを見れば誰にでも分かる。
更にかつては騎馬民族王朝などという珍説と共に、応神朝そのものが渡来人による征服王朝だという御伽噺が、学術的な証拠もないままに特定界隈で信奉されていた時期もあった。それこそこの理屈に従えば、当時貴重だった火縄銃を大量に所有し、天守(天主)と呼ばれる高層の城郭を築き、仏教等の旧勢力を破壊してキリスト教を保護し、西洋風の衣食を好んだ織田信長はスペイン人かポルトガル人で、下賤から身を興して遂には天下を取るや、俄に明を征服すると称して朝鮮に出兵した豊臣秀吉は、祖国凱旋と明からの独立を夢見た朝鮮半島からの渡来人ということになりかねない。
日本史の時代区分として、何を以て古墳時代の始まりとするのかについては、古墳の名の通り前方後円墳の出現というのが一般的な認識だろうか。しかし歴史とはあくまで国史だから、区分の基準を国家の政治体制として捉えた場合、やはり応神朝こそが時代の転換期となるのは間違いない。そして応神帝の築き上げた古代封建体制の下で日本は、古墳文化という世界史にも類を見ないような独自の民族文化を生み出して行く。しかしその独立性の代償として、激動する大陸や半島の情勢から徐々に取り残されて行き、やがて大陸で南北朝時代が終り、統一王朝の隋が興ってその余波が到達すると、再び国を挙げて先進文化の導入を推し進めることになるのだが、それは更に二百年後のことである。