古事記に見る皇位継承
応神天皇から仁徳天皇への皇位継承については、未だ解読されていない事案がいくつか存在する。元より史書が故意にそれを隠している訳だから、そこに多少の違和感を覚えたとしても、取り敢えずその場は史書を信じて先へと読み進めるしかないのだが。そうして記紀の成立から約千三百年の間、誰もが敢て異議を唱えることなく読み流してきた通説について、改めてここで再考してみようと思う。因みに記紀の設定では、大山守命が長兄、大鷦鷯尊(大雀命)が次兄、菟道稚郎子(宇遅能和紀郎子)が末弟となっている。まず記紀に伝える応神帝崩御から仁徳帝即位までの経緯は次のようなものである。
『古事記』によると、応神帝は大山守命と大雀命に問いて「汝等は上の子と下の子ではどちらが愛しいか」と言った。帝がこの問いを発したのは、宇遅能和紀郎子に天下を治めさせようという心があったからである。ここで大山守命は「上の子が愛しい」と答えたが、大雀命は帝の心情を察して「上の子は既に成人しているので心配はないが、下の子はまだ幼いのでこちらが愛しい」と答えた。帝は「大雀命の言こそ我が思うところである」と言い、「大山守命は山海の政をせよ。大雀命は国の政を執れ。宇遅能和紀郎子は天下を知らしめせ。」と詔して、次代における三子の役割分担を決めた。そして大雀命はその後も帝の命に違うことはなかった。
応神帝が崩じた後、大雀命は遺命に従って宇遅能和紀郎子に天下を譲ろうとしたが、大山守命はなお天下を望む心があり、弟を亡き者にしようと密かに攻める準備を始めた。以下これに続いて、大山守命の怪しい動きを伝え聞いた大雀命が、宇遅能和紀郎子と共に先手を打ってこれを防ぎ、伏兵を忍ばせて反乱軍を宇治川に破るまでの話が詳しく語られて行くが、結果だけ分かれば済むことなのでここでは割愛する。ただ太子の囮を立てて大山守命を欺くなど、語り部によって代々継承されてきた戦史として、他の天皇記と同じくその中身はかなり面白いものとなっているので、歴史を学ぶならば必読の箇所であることに変りはない。
大山守命を破った後、大雀命と宇遅能和紀郎子は各々天下を譲り合い、国主不在の状態が続いた。時に海人が大贄を奉ったが、大雀命はこれを拒んで宇遅能和紀郎子に貢がしめ、宇遅能和紀郎子もこれを拒んで大雀命に貢がしめた。こうして譲り合うこと一度や二度ではなく、相譲り合う間に多くの時が過ぎ、遂に海人達は両者の間を往復することに疲れて泣いた。諺に「海人や、己が物によりて泣く(人は物が得られずに泣くのに、海人は己の物を持て余して泣く)」とあるのはこれを言うのである。やがて宇遅能和紀郎子が早くに崩じたため、大雀命が天下を治めたという。
日本書紀に見る皇位継承
『日本書紀』の伝えるところもほぼ同じで、応神四十年、帝は大山守命と大鷦鷯尊を召して、「汝等、子は愛おしいか」と問うた。二人が「甚だ愛おしい」と答えると、「長子と若子ではどちらが愛おしいか」と言う。大山守命が答えて「長子に如かず」と言うと、天皇はこれを悦ばない様に見えた。時に大鷦鷯尊は予め天皇の顔色を察して、「長子は多く歳を経て、既に成人している。更に憂いはない。ただ若子は未だ成長するかどうかも知れず、よって若子は甚だ可憐である」と答えると、天皇は大いに悦び、「汝の言は、まことに朕の心に合う」と言った。天皇は常に菟道稚郎子を太子に立てたいと思っていた。そこで二人の皇子の意中を知りたいと思い、この問いを発したのである。そのため大山守命の返答を悦ばず、菟道稚郎子を立てて後嗣とし、大山守命を任じて山川林野を掌らしめ、大鷦鷯尊は太子の補佐として国事を執らせた。
応神紀では翌四十一年に天皇が崩じたとしているので、実質的にこの後嗣選定が応神帝の最後の記録となっている。続く大山守命の反乱については、その掲載場所に記紀で相違が見られ、「天皇崩りましし後」という形で応神記の末尾に記す『古事記』に対して、『日本書紀』では仁徳紀の冒頭に記す形を取っている。この相違が生まれた背景は、大山守命の乱が鎮定された後も太子の菟道稚郎子が即位しようとせず、大鷦鷯尊が即位するまでの間に奇妙な空白期間を生じたためだが、これについては後述するとして、まずは仁徳紀に語られる大山守命の乱を見てみる。
四十一年の春二月に誉田天皇が崩じた。時に太子の菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲って、未だ即位しなかった。大鷦鷯尊に諮って言うには、「天下に君として万民を治める者は、蓋うこと天の如く、容れること地の如し。上が驩然として百姓を使えば、百姓は欣然として天下は安らかである。今我は弟であり、また是とするに足る文献もない。どうして敢て嗣位を継ぎ、天業に登ることができようか。大王(大鷦鷯尊)は容姿が堂々として、仁孝は遠く聞こえ、年長である。天下の君と為すに足る。先帝が我を立てて太子としたのは、才能があったからではなく、ただ愛されたからである。宗廟社稷を奉ずるのは重事であり、僕は不肖にして称するに足らず。長者を上にして若者を下に、聖者を君として愚者を臣とするのは、古今の常典である。願わくは王これを疑わず、帝位に即かれよ。我は臣として助け奉るのみ」と。
大鷦鷯尊が応えて言うには、「先皇も『皇位は一日も空けるべからず』と仰せられた。故に予め明徳を選んで、王(菟道稚郎子)を立てて後嗣とされた。皇位という幸と天下の民を授け、その寵愛を国中に示されたのである。我不賢と雖も、どうして先帝の命を棄てて、たやすく弟王の願いに従えようか」と。固く辞して承けず、互いに相譲り合った。
時に額田大中彦皇子が倭(大和)の屯田と屯倉を掌ろうとして、屯田司の出雲臣の祖の淤宇宿禰に語って言うには、「この屯田は、本より山守の地である。よって今吾まさに治めようと思う。汝は掌るべからず」と。淤宇宿禰が太子に奏上すると、「大鷦鷯尊に申せ」と言う。そこで淤宇宿禰は大鷦鷯尊に「臣が任じられている屯田は、額田大中彦皇子が妨げて治められない」と訴えた。大鷦鷯尊が倭直の祖の麻呂に「倭の屯田が、元より山守の地というのは、これ如何に」と問うと、「臣は知らず。ただ臣の弟の吾子籠のみ知っている」と答えたが、その吾子籠は韓国に遣わされて未だ還らないという。大鷦鷯尊は淤宇に「汝自ら韓国へ行き、吾子籠を召喚せよ。昼夜を兼ねて速やかに行け」と言い、淡路の海人を差向けて水手とした。
淤宇は韓国へ行き吾子籠を連れて来た。そこで倭の屯田について問うと、答えて言うには、「伝に聞く、纏向玉城宮御宇天皇(垂仁天皇)の世に、太子の大足彦尊に仰せられて、倭の屯田を定められた。この時の勅旨は、『凡そ倭の屯田は、常に天下を統べる帝皇の屯田である。帝皇の子と雖も、天子でなければ掌るを得ず』との仰せであった。これを山守の地というのは非である」と。そこで大鷦鷯尊が吾子籠を額田大中彦皇子のもとへ遣わしてこれを説明させたところ、額田皇子もそれ以上は何も言えなかった。額田皇子の言動には悪意があることを知っていたが、赦して罪には問わなかった。
大山守皇子は、常に先帝が長子の自分を廃して太子に立てなかったことを恨んでいたが、重ねてこの怨み(倭の屯田を山守の治める地にできなかったこと)があった。そこで謀って言うには、「我、太子を殺して、遂に帝位に登らん」と。大鷦鷯尊は予めその謀を聞き、密かに太子に告げて兵を備えて守らしめ、太子は兵を設けて待った。大山守皇子はそれと知らずに独り数百の兵を率いて夜中に出発し、明方には宇治に到って河を渡ろうとした。以下これに続いて、太子が計略を用いて大山守皇子を宇治川に破った話を伝えているが、ここでは省く。因みに倭の屯田の一件で登場した額田大中彦命は、大山守皇子の同母弟である。
太子と大鷦鷯尊の譲り合い
太子は大山守皇子を那羅山に葬り、宇治に宮室を建てて居住した。既に皇位は大鷦鷯尊に譲っているため久しく即位しなかった。そして君主が空位のまま三年を経た。時に海人が宇治宮に鮮魚を奉ったが、太子は「我、天皇に非ず」と言い、返して難波に進上させた。海人が難波に行くと、大鷦鷯尊がまた返して宇治に献じさせた。そうして往来している間に鮮魚は腐ってしまった。海人は改めて鮮魚を献じたが、譲り合うこと前の如く、鮮魚はまた腐った。海人は往来に疲れて、鮮魚を棄てて哭いた。諺に「海人なれや、己が物から泣く」というのは、これが由来である。
太子は「我、兄王の志を奪うべからざるを知れり。豈久しく生きて天下を煩わさむや」と言って、自ら死を選んだ。大鷦鷯尊は太子が薨じたと聞き、驚いて難波から宇治へ馳せ参じた。太子は薨じてから三日を経ていたが、大鷦鷯尊が髪を解き屍に跨って、「我が弟の皇子」と三度呼ぶと、俄にして生き返った。大鷦鷯尊は太子に語って、「悲しいかな、惜しいかな、何故に自ら逝くのか。もし死んだと知れば、先帝は我をどう思うか」と言うと、太子は応えて、「天命なり。誰が留められようか。もし天皇の御所に参ることがあれば、兄王は聖者であり、度々辞されたことを具に申し上げよう。しかも聖王は我死したりと聞いて、遠路を急ぎ馳せ参られた。どうして労い奉ることなきを得ようか」と言い、同母妹の八田皇女を奉った。そしてまた棺に伏して亡くなった。
以上が史書に記された応神帝崩御から仁徳帝即位までの大まかな流れだが、こうして読み比べてみると記紀両書でほぼ同じ話を伝えていることが分かる。要約すると、先帝の後嗣選定を不服としていた大山守皇子が、菟道稚郎子を亡き者にして自ら帝位に臨もうと、密かに戦支度をして太子謀殺を企てたが、事前にそれを察知した大鷦鷯尊がこれを太子に告げて戦備を促し、予め兵を配置して待っていた菟道稚郎子が、攻め上って来た大山守皇子を宇治川に破ったものの、その後は太子と大鷦鷯尊が互いに帝位を譲り合い、やがて菟道稚郎子が夭逝したため大鷦鷯尊が即位したという流れである。
ここで誰もがまず首を傾げるのは、両陣営の戦地となった場所が、なぜ宇治川だったのかということだろう。宇治川(淀川)は近江の琵琶湖から流れ出て山城に入り、山城の南部を東から西に流れて河内へ注ぐ。言わば大和と山城の国境付近を横切るように流れる川である。因みに応神帝の王宮所在地について、正史『日本書紀』には記載がなく、『古事記』では大和の軽島の明宮としている。神功皇后の宮殿が大和だったことや、履中帝以降の王都が大和であることを考えると、恐らく応神朝も大和だったと思われる。そして史書には両陣営の戦前の所在を示す記述もなければ、戦記の中にもそれを判別できるような箇所がないため、果して大山守皇子が山城から大和へ攻め入ろうとしたのか、それとも宇治にいる太子を狙って大和から出兵したのかさえ不明なのである。
もし大山守皇子が北の山城で戦力を整えた後、帝位を奪うために大和へ進攻しようとしたのであれば、これは王都に侍る大鷦鷯尊や廷臣等とも一戦を交えるということだから、とても太子一人を暗殺して終るような話ではなく、後世の丁未の乱や壬申の乱のように、それこそ当時の朝廷を二分する争乱だったことになる。逆に大和から出兵したのであれば、応神帝の死後に何故か菟道稚郎子が俄に王都を離れて生母の故郷である宇治へ下向したので、これを千載一遇の好機とした大山守皇子が、太子を殺して天下を窺うために挙兵したという形になる。全体の流れを見る限り恐らく後者だろう。ではなぜ先帝崩御から間もない大事な時期に、即位を控えた太子が宇治へ行かねばならなかったのか。
いずれにせよ大山守皇子を奈良山に葬った後、菟道稚郎子は大鷦鷯尊に帝位を譲り、自らは宇治に居を構えて戻ろうとしなかった。一方の大鷦鷯尊もまた、帝位に野心がないことを示すためか、応神朝の離宮であった難波に移ったまま動こうとしない。こうして王都に天子不在という異常事態はしばらく続き、正史によるとそれは三年にも及んだという。当然その間は廷臣等が国政を代行していたのだろうが、或いは大山守皇子による反乱劇にしても、こうした前代未聞の譲り合いが招いた結果だったかも知れない。