史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

神功皇后(新羅征伐)

記紀に描かれた新羅征伐

 神功紀本文に描かれた皇后の新羅出兵は次のようなものである。秋九月に諸国に令して船舶を集め兵士を練ったが、時に軍卒が集まり難かった。皇后が「これは神の御心だろう」と言って、大三輪社を立てて刀矛を奉ると、軍衆が自ずと集まった。出発に臨んで皇后が吉日を卜ったところ、まだ日があった。皇后は親ら斧鉞を執り、三軍に令して言うには「鐘鼓が節無く乱れ、帥旗が混じり乱れる時は、士卒は整わないものである。財を貪り物を欲し、私を懐いて妻妾を顧みれば、必ず敵の捕虜となる。敵が少なくとも軽んじ侮ってはならぬ。敵が強くとも怖じて屈してはならぬ。暴姧する者を許してはならぬ。自ら降服する者を殺してはならぬ。戦に勝てば必ず賞があり、逃げ走れば自づから罪があろう」と。
 すると神の教えがあって言うには、「和魂は王身に服して寿命を守り、荒魂は先鋒となって師船を導こう」と。皇后は神の教えを得て拝礼し、依網吾彦男垂見を祭の神主とした。時に皇后は臨月に当たっていた。皇后は石を取って腰に挿れ、祈って言うには、「事を終えて還る日に、ここに産まれ給え」と。今その石は伊都県の道の辺にある。そして荒魂を招いて軍の先鋒とし、和魂を請いて王船を鎮めた。
 冬十月に和珥津から出発した。時に飛廉(風の神)は風を起こし、陽侯(海の神)は浪を挙げ、海中の大魚は悉く浮かんで船を扶けた。大いなる順風(追風)が吹き、帆舶は波に随って進み、櫨楫を労せずに新羅に到った。時に船を乗せた潮浪は遠く国の中にまで及んだ。新羅の王は戦慄して身の置き所がなかった。諸人を集めて言うには、「新羅の建国以来、未だ嘗て海水が国に上ることを聞かない。天運が尽きて国が海になるのか」と。その言葉も終らぬ間に、軍船は海に満ち、軍旗は日に輝き、鼓笛の音は山野に響いた。新羅の王は遥かに望み、未知の強兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐れて心を失った。
 やや落ち着いて言うには、「吾聞く、東に神国有りと。大和と言う。また聖王有り。天皇と言う。必ずその国の神兵ならん。どうして兵を挙げて防げようか」と。そこで白旗を挙げて自ら縛に就き、降服して言うには、「今より以後は、末永く伏して飼部とならん。船柂を乾さずに、春秋に馬梳及び馬鞭を献じ、また海の遠きを苦とせずに、年毎に男女の調を貢がん」と。また重ねて誓って言うには、「東に出る日が西に出ることなければ、また阿利那礼河が反って逆に流れ、河の石が昇って星にならない限りは、春秋の朝貢を欠き、馬の梳と鞭の貢を止めれば、天神地祇、罰を与え給え」と。
 時に新羅の王を殺そうと言う者もあったが、皇后は「初めに神の教えを承って、金銀の国を授かろうとしているのである。また三軍に号令して、自ら降服する者を殺してはならぬと言ってある。今既にその国を得た。王もまた自ら降服した。殺す道理はない」と言い、その縛を解いて飼部とした。そして遂に国の中に入り、皇后の矛を新羅の王の門に立てて後葉の印とした。その矛は今なお新羅の王の門に立っている。新羅の王の波沙寐錦は、微叱己知波珍干岐を人質として、金・銀・彩色・綾・羅・縑絹を何艘もの船に載せて皇軍に従わせた。これを縁故に新羅の王は常に多くの船で日本に朝貢するのである。皇后は内官家屯倉を定めて新羅から還った。十二月に誉田天皇が筑紫で生まれた。故に時の人はその地を名付けて宇瀰と言った。
 一方『古事記』の伝える話は次のようなものである。皇后が備に神の教え諭した通りにして、軍を整え船を並べて海を渡ると、海原の魚は大小を問わずに悉く御船を負って渡った。また順風が大いに起こり、御船は浪に従って進んだ。御船を乗せた浪は、新羅の国へ押し上がり、国の半ばにまで到った。ここにその国主が畏れて奏言するには、「今より以後は、天皇の命に従い、御馬甘として、毎年船を揃えて、先帝や竿舵を乾すことなく、永久に止むことなく仕え奉らん」と。そこで新羅を御馬甘と定め、百済を渡の屯倉と定めて、その御杖を新羅の国主の門に衝き立てた。ところがその仕置が終らないうちに、懐妊していた御子が産まれそうになったので、御腹を鎮めるために石を取って御裳の腰に巻き、筑紫に戻ってからその御子は生まれた。故にその御子の生まれた地を名付けて宇美と言う。またその御裳に巻かれた石は筑紫国の伊斗村にある。
 こうして読み比べてみると、『日本書紀』本文と『古事記』はほぼ同じ話を伝えており、細かな相違点などは殆ど無視できる範囲と言ってよい。更に神功紀では、漢籍を引用したと思われる辞句や、明らかに事実とは異なる潤色、物語の行間を埋める様々な逸話等が挿入されているが、いずれも大勢には影響ないような箇所なので、ここでは省く。また「一に曰く」として伝えるところでは、皇后が男装をして新羅を討つと、神は留まってこれを導き、船を乗せた浪は遠く新羅の国の中にまで及んだ。新羅の王の宇留助富利智干は、参り迎え跪いて「今より以後は、日本国に坐す神の御子に、内宮家として絶ゆることなく」朝貢すると言ったという。
 更に「一に曰く」として次のような話を伝える。新羅の王を捕えて海辺に連れて行き、斬って砂の中に埋め、一人を新羅の宰(公使)として還らせた。新羅の王の妻は、夫の屍を埋めた地を知らないので、宰を誘惑するつもりで唆して言うには、「汝が王の屍を埋めた所を教えれば、必ず厚く報いよう。また吾は汝の妻となろう」と。宰はその嘘を信じて密かに屍を埋めた所を告げた。すると王の妻と国人は共謀して宰を殺し、更に王の屍を掘り出して他所に埋めた。そして殺した宰の屍を王の墓の土の底に埋め、その上に王の棺を置いて「尊卑の順序とは、まさにかくの如くなるべし」と言った。天皇(皇后のこと)はこれを聞いて激しく怒り、大いに軍を興して一気に新羅を滅ぼそうとした。軍船が海に満ちて新羅に至ると、新羅の国人は大いに怖れ、皆で集まって共謀し、王の妻を殺して罪を謝したという。

新羅征伐の戦略

 和珥津というのは対馬国上県郡の鰐浦のことで、対馬の最北端に位置することから、遣唐使(北路)や文禄・慶長の役の際にも朝鮮半島への最終出港地となっている。史書では鰐浦を発った皇軍が、一路新羅の王都へ攻め入ったとしているが、恐らく実際にはまず半島南部の旧弁韓領に渡って体制を整え、親大和派の現地人の協力を得ながら事を進めたものと思われる。現実的な戦術から考えても、対馬のような山島は軍勢の集合地として不向きなので、倭寇や刀伊のように私貿易や略奪が目的ならばともかく、国家権力による正規の軍事行動ともなれば、やはりそれなりの条件を備えた港湾と、その周囲の土地が九州と朝鮮の双方に必要であろう。要はそれが後年の任那だった訳である。
 新羅の王都金城(慶州)へ進攻する経路としては、半島南岸(釜山付近)に上陸して北北東へ陸路を進むか、或いは南東部の蔚山付近へ上陸して同じく陸路を北上するか、或いは東部の迎日湾(浦項)へ上陸して兄山江を遡るかの三路が考えられる。陸路の距離が最も長いのは釜山付近から慶州に向かう進路で、逆に最も短いのは迎日湾からの進路である。そして大和の主力が水軍だったことや、記紀では皇后率いる軍船が新羅の国中にまで押し寄せたとあること、この戦役を機に大和が半島南部に屯倉を設けていること等から、恐らくこの時の新羅進攻の経路は、まず対馬から対岸の同盟国に渡り、そこから海岸線に沿って半島東部を北上し、迎日湾から兄山江に入ったと推測される。
 いずれにしてもこれだけの軍事行動を興すには、軍備は元より事前の情報収集や外交等にも相応の準備期間が必要だった筈で、とても皇后と大臣が唐突に始められるようなものではない。従って常識的に考えれば、一部巷で流布しているように、仲哀帝の筑紫親征は熊襲征伐が目的だったのだが、ある勢力が帝を亡き者にして、その進路を朝鮮に変更させたなどという珍説は、所詮御伽噺の域を出ないことが分かる。ましてその「宝の国」とやらが、神託を受けるまで未知の国だったのであれば猶更である。
 そして仲哀帝による筑紫への親征が、初めから熊襲征伐ではなく朝鮮出兵を目的としたものだったとすると、畿内に仲哀朝の王都がないことに対するそれなりの解答にもなる。要するに成務帝の後を継いだ仲哀帝は、即位後にまず取り組むべき政治の課題として、宮殿の造営よりも軍事を優先した訳であり、或いは天皇が数年に渡って西国に王宮を構えたという話も、朝鮮出兵の決定から筑紫に本営を構えるまでの期間を表しているのかも知れない。無論その間に元首である仲哀帝が、一貫して穴門に滞在したまま国政を執ったとは限らない訳だが。
 また当然ながら新羅国内へ兵を進めるためには、新羅の地理や内情に精通した者から予め正確な情報を得ておかなければならない。新羅王はどういう人物か。重用されているのは誰か。王と臣下は一体か。兵士に愛国心はあるか。王都金城の防御は、どこが堅くどこが脆いか。援軍を送る同盟国はあるか。それ等を尽く把握しておかなければ、とても大軍を動かすことなどできない。一方で相手には大和側の正しい情報を与えてはならない訳で、例えば文禄の役の際に李氏朝鮮が殆ど無防備だったのは、秀吉が朝鮮に兵を送ることはないという誤った情報を信じていたからだとも言われる。或いは当時の新羅もまた、大和が海を越えて攻めて来る筈がないと高を括っていたのかも知れない。

倭の国策と新羅

 ただやはり根本的に判然としないのは、なぜ敢て遠く新羅にまで遠征する必要があったのかということだ。その回答の一つに、新羅熊襲が通じていたからではないかという説がある。確かに当時の国際情勢からすると、必ずしも有り得ない話ではない。旧馬韓辰韓をそれぞれ統一した百済新羅だったが、両国は常に北の高句麗からの脅威に曝されていたため、未だ統一されていない旧弁韓諸国を競って自国に組み入れていた。従って旧弁韓の一員である加羅が日本と結んでしまうと、その加羅をも併呑しようとしていた新羅にとっては何とも都合の悪い事態となる。そこで「敵の敵は味方」という法則に従い、大和と敵対していた熊襲を動かすことで、日本が朝鮮に介入するのを防ごうとしたのではないかという訳である。
 仲哀帝神功皇后の伝記の中で、一貫して新羅を「宝の国」「財土」「金銀の国」などと呼んでいるのは、当時の辰韓地方が東亜有数の鉄の産地だったことに由来するものと思われる。『魏志辰韓伝にも「国は鉄を出す。韓・濊・倭は皆従いてこれを取る。諸市買に皆鉄を用いること、中国の銭を用いるが如し。また以て二郡に供給す」とあるように、古来鉄は辰韓の特産品であり、濊人や倭人辰韓の鉄を採取していたことが記されている。ただ辰韓諸国が代々馬韓人の王に統治されていたのに対して、その辰韓を統一した新羅は自ら王を戴く独立国であり、鉄資源は新羅にとっても貴重な財政基盤だったから、『魏志』のように周辺諸国が気軽に新羅の鉄を手に入れられる時代は終っていただろう。
 同じく日本もまた世界屈指の砂鉄の産地であり、主に山陰地方で豊富に産出される砂鉄と、その砂鉄の還元に適した「たたら製鉄」という技法によって、明治維新以前に生産された鉄製品の殆どを自国内で賄ってきた。しかし日本でたたら製鉄が普及し、国産の砂鉄を原料とする鉄器が自給できるようになるのは古墳時代中期以降のことで、それ以前には鉄器とその原料の多くを輸入に頼っており、その最大の供給元が辰韓だった。従って当時の日本にとって辰韓即ち新羅からの鉄の供給を持続させることは国策上の必須案件であり、間違ってもそれが途切れるようなことがあってはならなかったのである。
 また『魏志東夷伝では、辰韓について「土地は肥美、五穀及び稲を種るに宜しく、蚕桑を暁り、縑布を作り、牛馬に乗駕す」と記しており、土地が肥沃で生産性の高い地域だったことが分かる。養蚕に明るく高品質の絹を生産しているというのは、仲哀紀の神託に「眩い金・銀・彩色、多に其の国に在り」とあり、神功紀に「金・銀・彩色、及び綾・羅・縑絹を齎して」とあるのと一致する。更に当時の辰韓には、倭や馬韓にはなかった乗馬の習慣があったようで、これは辰韓人の祖先が大陸からの移住者だったことに起因するものだろう。
 「飼部」と「御馬甘」はどちらも「みまかい」と読み、言葉通りに漢字表記をすれば「御馬飼」となる。意味は読んで字の如く天皇の「御馬」を飼育する役人のことで、降服した新羅の王を御馬飼としたが故に、毎年新羅から馬具が献上されるというのだが、果して当時の日本の支配階級に乗馬の習慣があったかどうかは不明である。むしろ牧畜に縁のなかった日本が、これを機に新羅から馬術を導入しようとしたとする見方もある。「宮家」と「屯倉」はどちらも「みやけ」と読み、これは各地に設けられた天皇の直轄領のこと。記では百済を渡の屯倉(海を渡った地の屯倉)に定めたとあり、書紀異伝では新羅が自ら内宮家になることを申し出たとあるが、通常半島南部に置かれた大和朝廷直轄領「内宮家」は任那を指す言葉で、百済新羅屯倉と呼ぶのは珍しい。
 神功紀本文に登場する新羅王の波沙寐錦というのは、第五代娑婆尼師今のことで、寐錦と尼師今はどちらも王号を表す同語と思われる。唐突に新羅王の名が出てくる展開には、些か後付け感を覚えないでもないが、時代的には合致しているだろう。一方で同紀異伝に見える宇留助富利智干という王については、果してこれが誰を指したものなのか今も特定されていない。また本文では助命した筈の新羅の王を、異伝では浜辺へ連行して誅殺するなど、王の妻にまつわる話も含めて、恐らく時代の異なる別の伝承との混同があるのではないかとも言われる。
 同じく神功紀異伝の中には、皇后を「天皇」と記している箇所もあり、時系列的には新羅征伐を終えて帰国した後になる。しかし当の書紀本文は元より、現代に伝わる史書の多くは、仲哀帝崩御から応神帝の即位までの期間を太后の摂政期と定義するため、これは別の天皇の治世の事柄が反映されたに過ぎないとする向きもある。ただその一方で、気長足姫の尊号が「神功皇后」で統一されるのは江戸時代以降のことであり、それ以前の書物の中には「神功天皇」と明記された書もあるので、果してこの「天皇」が誰を称しているのかは安易に明言できないところである。同じく表向きは即位していないにも拘らず、諡号が追贈された皇族に厩戸皇子聖徳太子)の例があり、或いは両者に共通する何らかの事情があったのかも知れないが、ここでは立ち入らない。