史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

神功皇后(出兵前夜)

男装して渡海を説く

 続いて神功紀本文では、皇后が海を渡って新羅を征伐したという話を伝える。山門から松浦に移った皇后は、自ら男装して群臣に語って言うには、「師を興し衆を動かすのは国の大事である。国の安危と成敗は必ずここにある。今征伐する所があり、事を群臣に委ねる。若し事が成らなければ、罪は群臣にあろう。これは甚だ傷ましいことである。吾は婦女にして未熟ながら、暫く男の姿に仮装して、強いて雄々しい戦略を立てよう。上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを借り、兵を興して嶮浪を渡り、船を整えて財土を求める。若し事が成れば、群臣は共に功があり、事が就らなければ、吾独りに罪がある。既にこの意であるから、共に議れ」と。群臣は皆、「皇后は天下の為に、宗廟社稷の安泰を計っておられる。罪が臣下に及ぶことはあるまい。謹んで詔を奉ずる」と言った。
 これが新羅征伐の書出しの部分だが、『日本書紀』は漢籍を模倣しているので、凡そ日本語からかけ離れた表現になってしまうのは、文章としてある程度は仕方がない。その辺を踏まえた上で見てみると、まず皇后は女性であり、夫の命で陣中に侍っていただけなので、男装したとは言え恐らく兵の事など何も知らず、当然ながら現場の指揮は尽く「事を以て群臣に付く」という形になる。従って皇后による信賞必罰などは初めから望むべくもなく、それでも敢て朝鮮派兵を強行しようとするならば、「成功すれば功は群臣にもあるが、失敗すれば罪は全て自分にある」と予め約束するしかない。それに対して群臣の方も「罪が自分達に及ばないのであれば従う」と言っている訳で、その確約がなければ彼等は皇后や大臣に同意しなかったろう。
 ただ仮にそうであったとしても、そもそも仲哀帝による九州親征は、あくまで熊襲の討伐が目的だったというのが史書の建前な訳だから、既に大軍を動員してしまっているとは言え、主君が急死した状況で更に外国出兵まで事態を飛躍させられるかと言えば、現実的にそんな芸当は不可能だと考えるのが常識であろう。後世の似たような例を見てみても、推古十年に二度目の新羅征討軍が編成された時には、征討将軍の来目皇子厩戸皇子の弟)が屯営地の筑紫で急逝してしまったため、やはり皇子を周防の娑婆に殯し、後任の当麻皇子が下向するまでは計画そのものを一度中断させているし、慶長の役の最中に太閤秀吉が薨去した際には、五大老の名で渡海していた各地の部隊に停戦を命じて全軍を撤退させている。
 従って本来この時点でまず皇后と大臣が為すべきことは、宝の国とやらを求めて戦争を続けることではなく、直ちに作戦を停止して全軍を無事に大和へ帰還させ、編成を解いて兵士を家族の元へ返し、亡き先帝の葬儀を執り行って次の君主を奉戴することであろう。しかし前記の如く皇后と大臣のやったことは、大夫を集めて天皇の死を秘匿するように命じると、密かに屍を穴門へ運んで豊浦で殯し、帰京するどころか軍を橿日宮から山門そして松浦へ移動させ、神託を口実に新羅へ攻め入ろうというものだった。通常この時の皇后と大臣の行動に対しては、なぜ二人はそこまでして朝鮮に渡りたかったのかという議論になりがちだが、実のところ皇后にとって新羅出兵などは選択肢の一つでしかなく、本音は単純に大和へ戻りたくなかったのだと思われる。では一体何がそうまでして彼女を西国に留まらせたのかと言えば、恐らくそれは後継者問題である。

皇后気長足姫の思惑

 仲哀帝と気長足姫の間には実子がなかったので、もし彼女が遠征軍と共に筑紫から帰京してしまえば、その時点で名実共に足仲彦天皇の治世は終了し、別の系統の皇族の中から次の天皇が即位することになる。そうなれば気長足姫もまた若くして皇后の座を退き、太后としてそれなりの待遇を受けるとは言え、やはり我が子が皇位に即かなければ影響力は無いに等しく、以後は王宮を離れて静かに余生を送るほかはない。逆に言えば自分の産んだ子を即位させることさえできれば、彼女は国母として今以上の地位を保つことができるのであり、少なくとも皇后として大臣や大夫等を従え、軍を率いて筑紫に留まっている限り、彼女はその地位を保ち続けられる訳だから、何とかしてその間に事を決しようと望んだとしても無理のない話ではある。
 ただ当時の家督相続の基準として、長兄ではなく末弟が継承者となる事例(末子相続)は多く見受けられるが、幼子が後嗣に立てられたという話は余り聞かない。神武帝から仲哀帝までの皇室の歴史を見ても、立太子即ち後継者の選定はあくまで成人男性が対象であり、気長足姫が実践したように先帝の遺児を太子に立てて、その子が成人するまで母親が後見するという体制を、果して正当化するだけの前例があったかどうかは不明である。応神帝以降になると一転して兄弟相続が一般的になるが、もともと兄弟相続は、幼君では国を治められないという現実に沿ったものであると同時に、後見人となった皇太后外戚の専横を防ぐための制度でもある。逆に仲哀帝以前には(公称系図上)兄弟相続が行われた形跡がないので、或いは神功皇后の摂政期が契機になった可能性はあるだろう。
 気長足姫が夫の死後も皇后の座に固執したのは、その出自も影響していると思われる。後に聖武天皇藤原光明子を皇后に据えるまで、皇后は皇族から選ぶという不文律があったので、気長足姫も一応皇族の扱いを受けてはいるが、父親が開化帝の玄孫というだけの家系であり、後世ならば皇籍から外されていても不思議ではないほどの支流である。従って彼女が幼い我が子(と言うよりまだ産まれてもいない赤子)を太子に立てて、自分がその後見をする形で皇位を継承させようにも、それを実現するための支持層などは皆無に等しく、もし皇后と言う立場を失えば、その瞬間に全てを失ってしまうような身上だった。因みに古来日本では稀代の悪女と言われるような皇后が殆どいないのだが、それは皇后の家柄を厳選したこともその一因として挙げられるだろう。
 では実家や亡き夫の身内を頼れない気長足姫が、しかも無慈悲なまでに残された時間が少ない状況で、末永く今の地位を保持するためには一体何をどうすればよいのか。不幸中の幸いだったのは、今彼女と朝廷の重臣は都から遠く離れた筑紫に居り、目の前には亡き夫の率いて来た大軍があった。従って次の天皇が決まるまでの間、先帝の皇后として国権の代行が許されるうちに、その権力を使って朝廷内での立場を不動のものとするしかない。要はそれが新羅征伐だった訳である。但しこれは余りに危険な賭けであって、もし失敗すれば全ての責任を負わされかねないのは無論のこと、最悪は海の彼方で戦死もしくは捕虜の辱めを受ける可能性もあるが、どうせ何もせずに帰還したところで全てを失うのだから、まさに女を捨てて一か八かの勝負に出るしかなかったのだろう。
 もう一方の首謀者と思われる武内宿禰はどうか。そもそも彼は成務帝の竹馬の友であり、その縁故によって成務朝の大臣になった人物だから、仲哀帝の皇后である気長足姫に肩入れする義理はない筈である。にも関らず皇后と大臣が、まるで一味同心のようにその後も行動を共にしているのは、皇后と同じく宿禰の方にも保身を計らなければならない理由があったのかも知れない。彼は成務帝と同世代であり、当時としては既に高齢だったと思われるので、皇位が代れば罷免ということは十分考えられるが、大功臣のまま勇退という形であれば決して悪い話ではあるまい。しかし宿禰が老いてなお引退を受け入れようとしなかったのであれば、やはりそこには彼に向けられた激しい敵意や、派閥間の権力闘争等もあったと思われる。

朝鮮出兵と国内事情

 とは言え仮に皇后と大臣が結託して渡海を主張した(無論ここでは信託だの宝の国だのという物語は考慮しない)としても、やはりそれだけでは史上初の海外遠征を肯定するための説得力に欠ける。従って記紀では仲哀帝の筑紫親征の目的を揃って熊襲征伐だとしているが、むしろこれは初めから朝鮮出兵のための動員だったのではないかという見方もできる訳である。と言うのも前期の如く、既に日本を統一してから二世代を経た大和朝廷が、仲哀帝に流れる日本武尊の血が騒いだのでもない限り、たかが九州南部の小勢力を討つのに親征をする必要はないし、ましてその場に皇后を始めとして大臣以下の重臣が尽く侍り、更には帝自身が筑紫に宮殿を構えて何年も帰京しないなどというのは、凡そ現実離れした話である。要は作戦の規模に対して彼我の戦力が全く釣り合っていないのだ。
 そして実際にこれが朝鮮への派兵を想定した親征だったのであれば、元帥である天皇自身は筑紫に本陣を置いたまま渡海しないにしても、この時の官軍の陣容と史書の建前との矛盾点を無理なく説明できる訳である。では出兵の真の目的とは一体何だったのか。恐らくそれは加羅救援である。四世紀後半頃の朝鮮半島情勢を見てみると、加羅の立地する旧弁韓諸国は、馬韓を統一した百済辰韓を統一した新羅のように、旧域を統一するだけの国が現れなかったため、百済新羅によって両端から思うままに切り取られていた。当然加羅も日常的に両国からの脅威に晒されており、単独では百済新羅に対抗できない加羅が日本へ使者を送り、自国を藩屏にすれば半島への足掛りになること、新羅には資源が豊富だから毎年朝貢させれば国庫が潤うこと等を説いて、大和朝廷の下で統一された日本に加護を求めた可能性が高い。
 一方で朝鮮出兵の発端となった動機自体は、必ずしも半島側だけにあったという訳ではなく、むしろ日本側にも多分に内包されていたものと思われる。崇神帝に始まる統一事業によって、日本列島の覇者となった大和朝廷だったが、後の戦国時代と同じく、その過程は継続的な成長拡大であり、それに伴って国内の農地や人口も急激に増加した。しかし手に入れられる国土と、その時代の産業技術に制限がある以上、その成長もいつかは終焉を迎えるのが自明の理であり、古今東西の事例が示す通り、成長というのは始める時よりも終らせる時の方が遥かに難しい。
 やがて景行帝の治世になると領土拡大はほぼ終了し、続く成務帝の治世には郡県の領主が定められ、武功次第で国主にもなれるような時代は終了していたが、誰もがその現実に納得していたとは限らない。これは徳川幕府が三代将軍家光の時代になってなお、戦場を求める武士が全国各地に数多く居たことを思えば分かる。何しろ立身出世の手段が武功しかなかったような時代だから、成長意欲のある者にとって戦の機会が無くなるということは、生まれ落ちた時の環境に生涯甘んじなければならないことを意味していた。そうした富貴を夢見る者達にとって、朝鮮出兵は文字通り渡りに舟の話であり、逆に万人が天下泰平を享受しているような状況では、とても海外への大軍派遣などできる筈もない。
 仲哀帝の筑紫親征が初めから朝鮮出兵のための行動だったとすると、史書は何故それを伝えないのかという疑問が残る。確かに帝自身は道半ばにして崩じており、たといそれが記紀にあるように神の祟りを得ての急逝だったにせよ、或いは後顧の憂いを断つべく熊襲討伐を先行した際に、敵の放った流れ矢で負傷しての戦死だったにせよ、その不名誉な死因は伝えているのだから、敢て渡韓の上意を隠す必要はあるまい。まして皇后と大臣の行動を評するにも、亡き夫の遺志を継いで事を成し遂げた賢妻と、二代に渡って帝業を補佐した功臣として、神託云々よりも遥かに美談となるのだから猶更である。しかし記紀はあくまで全て神意によるという台本を綴っている訳で、恐らくそれは現実そのものが決して美談ではなかったからだろう。