史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

景行天皇(筑紫巡幸:其三)

火の国

さて熊県(肥後国磨郡)で弟熊を討った景行帝は、『日本書紀』によると海路から葦北(同葦北郡)に渡ったとされます。
ただ地図を見れば誰でも分かる通り、球磨郡葦北郡は隣接しているので、険阻な山越えを伴うとは言え、わざわざ一旦日向まで戻り、舟で大隅海峡を迂回するよりは、そのまま陸路を進軍してしまった方が遥かに早くなります。
にも拘らず海路からの移動を選択したのは、恐らく天皇の親征ということで皇軍が多勢だったことや、その後の行程を考えても日向に船団を置いて行けなかったこと等が、その理由かと思われます。
要は天皇以下の主力が先に陸路から葦北に抜け、別動隊として水軍に後を追わせるという作戦が、政治的または物理的に難しかったということでしょう。

海路から葦北の小島に泊った景行帝は、葦北から船出して火の国に着きましたが、ここで日が暮れてしまい、夜も更けて船を着ける岸が分かりませんでした。
すると遥かに火の光が見えたので、船頭に詔して「真っ直ぐ火の見える所を目指せ」と言い、そのまま火の方へ向かって行くと岸に着くことができました。
帝が火の光る所を尋ねて「何という邑か」と問うと、国人が答えて言うには「八代県の豊村」だといいます。
またその火を尋ねて「これは誰の火か」と聞いたものの、火の主が分かりません。
そこでこれは人の火に非ずということで、その国を火の国と名付けたといいます。

同じく火国の起源について『肥前風土記』では、肥前国はもと肥後国と合せて一つの国だったと前置きしてから、次のような話を伝えます。
昔、磯城の瑞籬の宮に御宇しめしし御間城の天皇崇神天皇)の世、肥後国益城郡の朝来名の峯に、打猨・頸猨という二人の土蜘蛛が居り、徒衆百八十余りを率いて朝命を拒み、降服を肯んじませんでした。
そこで朝廷は肥君等の祖の健緒組を遣わして討伐させました。
健緒組は勅を奉じて尽くこれを誅滅し、また国内を巡って消息を観察しました。
八代郡の白髪山に到ったとき、日が暮れたので宿を取りました。
その夜、大空に火があり、それは自然に燃え、徐々に降りて来て、この山に着いて燃えました。
健緒組はこれを見て驚き怪しみ、朝廷に参上してその状を奏聞しました。
天皇は勅して「奏せる事は、未だ曾て聞きしことあらず。火の下りし国なれば、火の国と謂うべし」と言い、健緒組の勲を挙げて火君健緒紕の姓名を賜い、この国を治めさせたといいます。

同記ではこれに続けて、纏向日代宮に御宇しめしし大足彦天皇景行天皇)が球磨贈於を誅し、筑紫を巡狩した時の話として次のように伝えます。
葦北の火流の浦より発船して、火の国に幸したところ、海を渡る間に火が暮れ、夜が更けて船を着ける所も分かりませんでした。
忽然と火の光があり、遥か行く手の前方に見えたので、天皇は船頭に「真っ直ぐ火の所を目指せ」と言い、それに従って行くと、果して岸に着くことができました。
天皇が詔を下して「火の燃ゆる処は何と言う邑か。また燃ゆる火はいかなる火か」と問うと、国人が奏して「火の国の八代の郡の火の邑なり。但し火の主を知らず」と答えました。
時に天皇は群臣に向かい、「今、この燃ゆる火は、これ人の火には非じ。日の国と号くる所以、その爾る由を知りぬ」と言ったといいます。

火から筑紫へ

どちらも火の国の語源が不知火に由来するという点は同じですが、景行帝が現地で自ら火を見ているのに対して、崇神帝は部下の報告を受けたに止まっています。
因みに『肥前風土記』とほぼ同じ話が、『肥後風土記逸文にも伝えられており、これが肥前肥後共通の火国伝承だったようです。
そして葦北を発船して火の国に入り、肥後・肥前筑後の諸国を巡察して凱旋するまで事跡が、この筑紫巡幸の後半部分となります。
その間の経緯を詳しく伝えるのは、やはり『日本書紀』と『風土記』になりますが、残念ながら九州諸国で『風土記』が現存するのは豊後と肥前の二国だけで、他の七国については他書に引用された部分が逸文として残るばかりとなっています。
そこで前半同様に各書の記述に沿って、肥後から筑後へ到るまでの巡幸の経路を追ってみると、大体次のようになります。

 

高来県(肥前国高来郡)より玉杵名邑(肥後国玉名郡か)に渡られた。時にその地の土蜘蛛津頬というのを殺した。次いで阿蘇国に到った。その国は野が広く遠くして、人家が見えなかった。天皇が「この国に人は居るのか」と言われると、時に阿蘇都彦と阿蘇都姫という二人の神があり、忽ち人の姿になって詣でて言うには、「吾二人在り、何ぞ人無けむ」と。故にその国を号けて阿蘇と言う。(『日本書紀』景行紀)

肥後国風土記に言う。玉名郡の西に長渚浜がある。昔、大足彦天皇が球磨贈唹を誅して還られる時、御船をこの浜に泊められた。御船の左右に泳ぐ魚が多くあった。船頭の吉備国の朝勝美が針で釣ったところ、多く獲れたので天皇に献じた云々。(『釈日本紀』多請)

築後の御木(筑後国三毛郡三池郡)に到って、高田行宮に居られた。時に倒れた樹があった。長さは九百七十丈あった。百僚は皆その樹を踏んで往来した。天皇が「これは何の樹か」と問うと、一人の翁が申すには、「この樹は歴木(檪*1)と言う。嘗て未だ倒れる前は、朝日の光に照らされては杵島山を隠し、夕日の光に照らされては阿蘇山を覆った」と。天皇は「この樹は神木である。故にこの国を御木の国と呼べ」と言った。次いで八女県(同八女郡)に到り、藤山を越えて粟崎を望まれた。詔して「その山の峯は幾重にも連なって甚だ麗しい。若し神はその山に有ろうか」と言われた。時に水沼県主の猿大海が奏して言うには、「女神が在す。名を八女津媛と言う。常に山の中に在す」と。故に八女国の名はこれに由って起こった。(景行紀)

筑後国風土記に言う。昔、楝*2の木が一株、郡家*3の南に生えていた。その高さは九百七十丈あった。朝日の影は肥前国藤津郡の多良の峯を蔽い、暮日の影は肥後国山鹿郡の荒爪の山を蔽った。因って御木国と言う。後の人は訛って三毛と言い、今は郡名となった。(『釈日本紀』歴木)

的邑(筑後国生葉郡)に到って食事をされた。この日に膳夫等が盞(盃)を忘れた。時の人は、その盞を忘れた所を号けて浮羽と言った。今、的と言うのは訛ったものである。昔、筑紫の俗として盞を浮羽と言った。(景行紀)

筑後国風土記に言う。昔、景行天皇が国を巡るのを終えて、都に還ろうとした時、膳司がこの邑にあって、御酒盞を忘れた。天皇は勅して「惜しいかな、朕が酒盞はや」と言われた。因って宇枳波夜の郡と言う。後の人は訛って生葉郡と号けた。(『釈日本紀』的邑)

景行天皇が球磨贈於を征伐して凱旋される時、筑後国の生葉の行宮を発って、この郡に幸した。久津媛という神があり、人の姿と為って参り迎え、この国の消息を明らかに申し上げた。これによって久津媛郡と言う。日田郡というのは訛ったものである。(『豊後風土記日田郡

翌年、天皇は日向から大和へ還られた。(景行紀)

 

f:id:sansui-ou:20210330220258p:plain

景行天皇巡幸経路(高屋宮~高田宮)

 

ここでいくつかの面白い点に気付きます。
例えば三毛郡三池郡)の名称について、『日本書紀』景行紀と『釈日本紀』引用の筑後風土記は、どちらもかつて同郡に自生していた巨樹に由来するとしています。
しかし逸文の方は単に巨大な楝が郡衙の南に生えていたと記すだけで、景行帝の巡幸については特に触れていません。
また景行紀の方でも「百僚」などという凡そ時代にそぐわない単語が使われるなど、御木郡命名と景行帝巡幸の因果については曖昧な点が多いものです。
そしてそれは景行帝の名を冠する他の伝承についても言える訳で、恐らく同帝による筑紫巡幸という事業が余りに衝撃的であったが故に、本来は何の関係もない九州土着の古伝の多くが、巡幸の治績に絡める形で後世に伝わってしまったものと思われます。

因みに筑紫平野に立っていたという巨樹については、『肥前風土記』佐嘉郡の項にも同様の話が伝わっており、それは次のようなものです。
昔、樟*4樹一株がこの村に生えていて、幹は高く枝は秀で、茎と葉は繁っていました。
朝日の影は杵島郡の蒲川山を蔽い、暮日の影は養父郡の草横山を蔽うほどでした。
日本武尊が巡幸された時、樟の茂り栄えた様をご覧になり、勅して「この国は栄の国と謂うべし」と言われました。
因って栄の郡と言い、後に改めて佐嘉の郡と号けたのだといいます。
樹種についても、『日本書紀』では檪、『釈日本紀』では楝、『肥前風土記』では樟となっていますが、恐らくこれも筑紫平野に伝わる巨樹伝説と、景行帝または日本武尊による熊襲征伐が、時を経て一体化してしまった事例でしょう。

もう一つ興味深いのは、『釈日本紀』引用の肥後風土記によると、景行帝の乗る御船の棹人*5をしていたのが、吉備国の者だということです(尤も朝勝美の名は他に見えない)。
景行帝の前皇后は吉備臣等の祖である稚武彦命の娘なので、外戚の吉備氏が重用されるのは当然なのですが、この筑紫巡幸でも遠征軍の中核を託されたのは吉備水軍だった訳です。
そして稚武彦の子または孫とされる吉備武彦が、大伴武日と共に日本武尊の東征の従者に任ぜられ、武彦の娘の兄媛が応神妃となるなど、崇神・垂仁両朝で権勢を誇った大彦命彦坐王の家系と並んで、吉備氏もまた大和朝廷屈指の有力皇族として政権の中枢を担って行くことになります。

残る肥前地方への巡幸については、やはり『肥前風土記』に詳しく、『日本書紀』では殆ど扱われていません。
もともと『肥前風土記』は、冒頭に語られる火の国の由来に始まり、国内十一郡の内の実に八郡で景行帝にまつわる伝承を載せるなど、『豊後風土記』と同じく殆ど景行紀の延長と言える書物です。
従って当然そこに記されているのは、景行帝が各地で土蜘蛛を討伐した話や、幸した土地の由緒にまつわる話なのですが、前記の如く果してそれら全てが史実なのかと言えば、その大半は甚だ怪しいというのが実状でしょう。
加えて『肥前風土記』に修められた景行帝の挿話は、郡県の下の郷邑まで入れるとかなりの数になってしまうので、ここでは割愛します。
因みに景行帝が登場しない三郡の内、神崎郡を分割して設けた三根郡は別にして、残る佐嘉郡と小城郡は皇子の日本武尊にまつわる話を伝えており、実質的には全ての郡が景行朝との縁を有する形となっています。

*1:くぬぎ

*2:おうち

*3:郡の役所

*4:くすのき

*5:かじとり=船頭